中断するのが仕事

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著名な建築家ヴォーリスの最晩年の設計である市川教会会堂は、2009年に国の登録有形文化財に登録された。それ以後、会堂を見学したいと来られる方も多く、何度も映画やテレビドラマの撮影に使用されている。コロナ禍で昨年は見学者は殆ど無かったが、最近になって、再び訪問して来られる方が見られるようになった。殆どの見学希望者は「突然」である。私が電話中だろうと、仕事に集中している最中だろうと。ふらりと立ち寄り「中を見せていただけませんか?」と言われると、その都度、簡単な説明をしながら最後まで付き合うことになる。6月半ばには、「ヴォーリス建築があることを知って船橋市から来た」という方と、「会堂が建ったばかりの頃に結婚式を挙げた」という方が重なるというハプニングがあったが、コロナ禍下、人ごみを避けつつ「登録有形文化財」の散策で心を潤したいとお出でになったと思うと、無下にお断りはできずに、最後までお付き合いしたばかり。

先週の日曜日の午後、会堂玄関からチャイムが鳴った。正直に言えば、日曜午後は一番ホッとした気分になれる時間である。次の日曜日を迎えるまで一番時間に余裕がある時だからである。その矢先のチャイムに、「宅配便だろうか?」と慌てて玄関先に向かうと、三人の若者が立っていた。彼らの姿を見た瞬間、私は察した、「会堂見学の希望者」だと。複雑な気持ちで彼らの所に向かいながら、午前中の説教の言葉、即ち自分で語った言葉が私に向かって叫んでいた、「私が妨げられることは私の仕事である。」(現代聖書注釈書マルコによる福音書、P.187)この日の福音書は会堂長から娘を助けてほしいと懇願され、そこに向かう途中、12年も出血が止まらない女性のために足を止められ、その結果、会堂長の娘は死んでしまうが、イエスによって女性も人格を取り戻し、娘も蘇ったという話である。求めている人のためには、「中断することが私の仕事」というひとつのメッセージがそこには含まれていたのである。

「中断するのも仕事」と思っている私は、心のどこかに「仕方ない」という気持ちを抱えて接することが多いが、そうではなく「中断するのが仕事」なのだと、聖書を通して私に語り掛けてくださっている。そういえば、子育て中も中断の日々であった。あの時私は、「中断するのも親の務め」と思っていたけれど、本当は「中断するのが親の務め」だったのだと、今になって反省している。

コロナ禍下、あらゆることが中断させられたように思う。神はこの時私たちに、「今は中断して見詰め直す時、それが必要な時だ」とおっしゃっているのかもしれない。

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