じゃぁ、またね|「じゃあ、またね」から得る慰めと希望

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「じゃあ、またね」、六日間の帰省後、帰宅する次男家族を駅まで送り、改札に向かう彼らにそう声を掛けた。久しぶりに幼児の声が響き、予想もつかない行動に驚かされた六日間から再び大人3人の静かな我が家に戻る寂しさを、「じゃあ、またね」と声を出すことで打ち消そうとするかのように。

感染症が拡大し、私たちは人と会う機会を失った。当初、画面越しで会えるようになったこともあって、私はさほどの不便は感じなかったし、むしろ現地に赴く時間がなくなり「効率的で良い」とすら感じていた。しかし、会が終わると「お疲れ様」の一声で画面から相手が消えていき、何事もなかったかのように会議前の日常に戻っていくことが続くと、「会議を行った」という記録は残っても、「どんな会議だったか」という記憶は薄らいでしまうように思えてならなかった。それは・・・。次男家族を「じゃあ、またね」と見送りながら、祭りのような楽しさを思い起こし、祭りの後のような寂しさを感じつつ、「次に会う時が楽しみだ」と自分を励ましていた。そう、「じゃあ、またね」という別れの言葉を交わしつつ、その余韻の中から慰めや励ましや希望を貰っているのだということを、その時はっきり私は知った。効率的な会議は確かに有益かもしれないが、「じゃあ、またね」の言葉と余韻を失ったところには、記憶もまた薄いものとなってしまうのかもしれない。対面で会うことが再び許されるようになった今、「じゃあ、またね」と語れる喜びや温かさを取り戻したいと思う。

「じゃあ、またね」、ご葬儀の時に私は亡くなられた方にそう告げる。聖書に次のように約束されているからである。「イエスは言われた、『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』」(ヨハネ11:25)「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(同14:2)だから葬儀の時は「さようなら」ではなくて、「ありがとう、じゃあ、またね」と言える幸いを、神は私たちキリスト者が、いや、全ての人がその幸いを受け入れてくれることを願っておられるのだ。

私もいつかは地上の命を終える。その時、どうぞ私のことを思い出してくださるなら、「じゃあ、またね」と語ってください、お願いします。