何をみたのか?|見つけた・気づいたことを大切に

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それは今年最初のかかりつけ医院での検診の時だった。「検査の結果、便に血が少し見つかったので、大腸と胃の内視鏡検査が必要。K病院に紹介状を書いておくから必ず検査しなさい。」と、お医者さんが「託宣」のように私に。胃も大腸も内視鏡検査を数回経験したことのある私は、「あの日、前夜に沢山トマトを食べたから、トマトの皮と見間違えたのでは?」、「ありません!」、それでも必死に「もしかしたら指から血が出ていたのでそれが滴ったのでは・・・」、「そんなことはあり得ません、帰りに紹介状をもらって、検査に行くんですよ!!」。私は仕方なく紹介状をもらって退散し、一ヶ月半たった先日病院へ出かけた。大腸と胃の内視鏡は別々にと言われて、スケジュールを組んだ。「嫌だなぁ~」気分で一杯の私は、空いている日を予約。大腸が2月27日、胃が3月1日。4日間位の間があるから良いだろうと思い込んでいたが、帰宅して気付いたことは「2月は28日迄、一日空けただけで胃の内視鏡‼」、迂闊(うかつ)だったと思っても後の祭り。大腸内視鏡のために3日間も流動食を食べ続けながら、「お医者さんは私のためにしっかりと診て心配してくださった上での検査なのだから、嫌だと思わず感謝しなきゃ」と思い直して3日間に2回の内視鏡検査を終えた。

「『私たちにしか分からないことがある』と熊本県の18歳は書いた。これまでの高校生にはなかった経験をしたと思って『たくさん感じた不公平というマイナスをプラスに』▼行きたいところに行けなかったこと。したくても出来なかったこと。幾多の残念があっただろう。ただ、それで『可哀想な世代』と言われるのは『少し不満』と岩手県の18歳。」(3月1日朝日新聞「天声人語」より)そう、確かに友人の素顔も観ないで卒業するのは特異なことだが、世界中の全ての人が様々な困難に直面してきた。その意味では「可哀想な社会」を生きて来た3年間だったのだ。でも彼らが言うように、経験したことのない世界の中で、私たちは何を見、何を聞き、何を感じたかということこそ大切にすべきことなのではないだろうか。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)イスラエル中を歩き、人々がどんな状態なのかをご覧になったからこそ、必要なのは愛であり、支えとなる生きた信仰であることをお知りになったのだ。「見ること」それが神の愛の始まりなのだ。

さて、内視鏡で診てくださったお医者さんたち、私の大腸や胃はどんな状態にみえたのだろう。結果は2週間後、はてさて。

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