ケガの功名|いま起こっている事をしっかり見る
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「作家の仕事のひとつは、『災害』の中に隠喩(いんゆ)を見つけることだ。この場合、隠喩とはすなわち普遍性である。(中略)僕たちにできるのは、しっかりと『見る』ことだ。今、何が起こっているのか。自分は何を恐れ、何に傷ついているのか。自分以外のどういう人が困っているのか。彼らを困らせている原因は何か。(中略)過去と現代を『見る』ことで、不確実な未来を想像する、それこそが、無力な僕たちに出来ることなのではないか。」(1月19日朝日新聞デジタル版より)作家の小川哲氏が、先日直木賞の受賞後に寄せた文章の一部である。そして「過去と現代を見ることで、不確実な未来を想像する、それこそが、無力な僕たちにできることではないか。」と括(くく)られている。聖書は同氏が語る「隠喩、即ち普遍性」について、それは「神」だとはっきりと示してくれている。しかしその神を見出すためには、聖書に記された人々を、そして今に生きる私や隣人をしっかり見なければ、神の働きそのものも見いだせないということに他ならない。
新型コロナウィルス感染症の拡大が始まって間もなく3年。今年の保育園の卒園児たちは、あの年の4月から毎週礼拝を守るようになった子どもたちである。礼拝こそ続けてはいたものの、密集にならないためにクラス毎の礼拝になり、礼拝後のハイタッチも無し。別れ際もグータッチだの肘タッチだの、本当に予防になるのかと疑問に思えるような仕草でのお別れ。せめて私の口元が見えるようにとフェイスシールドを着用し続けたものの、週一回の短い時間では消化不良のままでお別れだなぁと感じていた。
先週の礼拝の時だった。「見失った羊」の話をしていた時、間を空けて座っている子どもたちの姿が目に入った。もちろんいつもと変わらないのだが、ふっと「彼らの中に入ってみるか」と思い立って、子どもたちの間を迷い出た羊や探しにいく羊飼いになって歩き回った。子どもたちはというと、大歓声で私を迎えてくれた。そうだ、「感染予防」を優先させる余り、私は子どもたちを見ていなかったのではないかと反省した時であった。年長組の子たちとは卒園まで二か月しかないが、しっかり彼らの姿を見て送り出し、Withコロナの世界を生きる彼らにささやかな支えを与えてあげたいと思う。
「わたしは歩哨(ほしょう)の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」(ハバクク2:1)紀元前600年頃、強大で横暴なバビロニヤの圧政の下、「神の働きを見よ」と呼ばれたハバククのように、今世界で起こっていることを、私たちもしっかり見なければなるまい。