覚悟を成長させる

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神は世界を良いものとして造られた。しかし世に悪がはびこったために洪水を起こして世を造りかえようとされ、ノアの家族に世界を託された。その際、「二度と世界を滅ぼさない」と覚悟を示された。だが悪は再び徐々に広がり、特にソドムの町は非常に深い悪がはびこっていたので、ソドムの町を滅ぼしてしまおうとされた。アブラハムはそれを聞き懇願し始める。「正しい者が50人いても一緒に滅ぼしてしまわれるのか」と。すると「50人いたら赦そう」と言われたので、アブラハムは続けて「45人」「40人」「30人」「20人」と減らし、最後に「10人しかいないかも」と聞くと、「10人のために滅ぼさない」という神の言葉を引き出した。しかしアブラハムの懇願もむなしく、ソドムには10人の正しい人も見つからず、ただロトの家族4人を除いて滅ぼされた。(創世記18章)悲惨な結果となってしまったが、「極めて良い世界」(創世記1:31)を造り守ることは神の覚悟であった。だからこそ、アブラハムの懇願を受け入れ、神の覚悟はそのままに、僅かでも滅ぼさずに済む道を選ばれたのである。

「覚悟を決めた、コロナに向き合うしかない」と。それが1年前の私たちであったと思う。最初の緊急事態宣言で日本におけるコロナは収束するのかと期待したが、徐々に感染者が増加し、ワクチンも治療薬もない状態では早期の収束は叶わぬ夢であることを実感したからこそ、覚悟が必要だと悟った私たちであった。今はお店や施設のパーテーションも気にしなくなり、外出時のマスクは習慣となり、人との会話中のマスクや距離を取ることも日常生活となった。違和感があった入室時の「検温」も、自ら進んで行うようになった。1年前の覚悟が成長した結果だと思う。

その意味では、アブラハムの懇願を受け入れたのは、神がご自身の覚悟を成長させられたということであるかもしれないし、その後のイスラエルの歴史においても繰り返し見ることができる。イスラエルの民が神を離れる罪を繰り返しても預言者たちを送り続け、ついには御子を十字架に付けるという道を用いて世を救おうとされたことも、覚悟の成長の顕れである。そして聖書の時代後も同様に、極めて良い世界を守るために、覚悟を成長させておられるのだろう。私たちも神の覚悟の成長のために働く者となりたいものだ。

夢は持つものであって、それを叶えるために努力しなければならない。覚悟は決めるものであるが不十分なものだから、成長させなければならない。親として子の覚悟を成長させてあげられただろうかと、ふと振り返って自問している日々である。

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