「一瞬」が増えた!?
(11)
ある晴れた日の昼前、川沿いの道を歩いていて、初老の男性とすれ違った。前を向き背筋がピンとして、しかしゆったりとにこやかな表情を浮かべながら歩いておられた。一瞬のことであったが、すれ違った私の気持ちも穏やかになっていくようであった。それは15、6年も前のことなのに、日時も季節も覚えていないのに、ましてほんの一瞬のすれ違いなのに、時折人と会う際に私の記憶によみがえってくるのだが、会った方にまで穏やかな気持ちにさせてあげられているかは定かでない。まして今はコロナ禍中、マスクで隠れた表情では、穏やかさを醸し出すことはできないし、せめて目元だけはと思うのだが・・・。
死刑を宣告されイエスが外へ引き出された時、「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」(マルコ15:21)マルコによる福音書が書かれたのはイエスの死後半世紀たった頃で、人々にはアレクサンドロとルフォスが知られていたのだろう。「彼らのお父さんは主の十字架を担がされたんだって!」という具合に人々に伝わっていたと思われる。シモンは田舎からエルサレムという大きな街にやってきて、イエスが十字架を担いでいるところを通りがかっただけなのに、無理矢理に負わされたのだが、その一瞬の出来事が彼を、そして彼の家族をも、人生を変えられたのである。だが、シモンのような大きな「一瞬」を、みんなが経験をする訳ではない。
「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。」ごく普通の日常を送る一瞬に、当たり前のように受け入れている自然と触れ合う一瞬の中に、神の恵みに気付かせ、私たちの心を豊かするものがたくさんある、とイエスは人々に教えられたのである。神を受け入れるということは、私たちの日常の一瞬々々が輝いていることに気付く目を頂くことなのかもしれない。
コロナ禍に襲われて一年が経過した。抜き差しならぬ仕事や用事で出かける以外、「巣ごもり」生活が続いている。比例して「一瞬の出来事」に出会う機会が減ったともいえる。しかし今、私は思うのだが、これまで目を留めることもなかったありふれた日常の「一瞬」こそが、実は素晴らしい出来事なのだということを。その意味では、この一年を振り返ると、出来事としての記憶は少ないのだが、「あの時、この時」と心に留まる「一瞬」は、むしろ増えたように思う。何より、死ぬまで忘れることのない「コロナ禍」を、ここまでみんなで生き抜いてきたのだから。