この時代が好き!
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神殿の立派さに驚嘆する弟子たちに向かって、イエスは終末の出来事の一端を話されつつ、次のように付け加えられた、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13:32)と。更に、復活し天に昇られる前、イスラエルの再建を期待していた弟子たちに「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒1:7)と言い遺された。「神がなさることについては神を信頼してお任せし、あなたがたは今自分に与えられたことに目を留めて生きなさい」と励ましてくださっているのだが、これらの言葉は、もっと違う意味をもっているのではないかと最近思うようになった。
3月は年度末、保育園を卒園する子どもたちのお別れ遠足に同伴してきた。電車に乗って博物館や動物園…ではなく、近くの川の土手まで。お弁当は帰園して屋上で。コロナ禍で身近な所へのお別れ遠足となってしまったが、子どもたちを精一杯楽しませてあげようという保育士たちの心が随所に見られ、楽しく嬉しい時であった。いきなり登園中止から始まった今年の年長さん。マスクの日常、給食での楽しいおしゃべりも我慢。そんな子どもたちを見詰めながら私に出来ることは「いつもと違う」という言葉を封印すること位しかなかったが、子どもたち自身は「いつもなら…」と言わないで、「この時代」を精一杯生きていたように思う。だからこそ大人の私たちが、「コロナさえなければ…」だの「コロナが収束したら…」等と、過去と比べたり不確定な未来に思いを寄せてしまうよりも、もっと今と向き合うことが大切だと、子どもたちの姿が私に語り掛けているようだった。主が「あなたがたの知るところではない」と弟子たちに語られた時、主は「あなたがたが生きているこの時代を、もっと好きになりなさい」と言っておられるように、今私には聞こえてくる。
想定外の災害が多発し、コロナウィルスに日常を脅かされ家族ですら「密」になれない時代だが、主は十字架の上から「この時代を好きになってごらん!」と語り掛けてくださっている。
先日も年長さんたちが教会にやって来た。月に一度、徒歩30分かけて教会に来て礼拝するが、最後に「会堂探検だけ」のためにやって来たのだ。安全には十分配慮した上で、いつもの年長さんは覗くだけだった聖壇下の床下に潜り、見上げるだけだった鐘撞堂の4階に梯子を伝って上らせてあげた、特別のプレゼントとして。今を、この時代を、彼らが「大好き!」と言ってくれるように、ホンの少し背中を押してあげたくて!