教えているつもりが教えられて

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。(ローマの信徒への手紙11章21節)

【解 釈】
当時のユダヤ人は特別な意識をもち、自分たちこそ信仰においても道徳においてもいちばん優れた民族であると言いつつ、実生活ではまことに偽善的であった。パウロはこれに警告を発しているのである。いわば、本音と建前を使い分ける偽わりの仮面を剥ぎ取るのである。人は他人には厳しいことを言えても、さて自分のこととなると甘くなる傾向がある。他人に教えるなら、自分にも厳しく教えなさいとパウロは言っているのである。

よくこの言葉を噛みしめながら、少しばかり注意してあたりを見回してみると、意外にも、教えているようで、実は教えられていることが多いことに気づく。教師は、手のかかる生徒から、福祉のワーカーは認知症の老人から、あるいは知的ハンデイをもつ子どもから、びっくりするようなことを教えられる。教えるより教えられるほうが世のなかには多い。少し見方を変えれば、自分が教えられる材料には事欠かないのが、この世である。

【こころ】
一足す一は二と教えるのは、少しも不思議でもなんでもないのに、生徒から「どうして一足す一は二になるの」と聞かれて答えに窮したと、ある小学校の先生から聞いたことがあります。自分ではすっかり自明のことであって、特別なことでもなんでもないのに、あらためて聞かれると、びっくりするようなことは多いものです。そのたびに何事かを教えられます。

あるとき、カラオケ好きの人に、「演歌はどれをとってみても同じような節回しだね」と少し皮肉まじりに言いました。するとその人は、「先生、賛美歌だって、どれをとっても同じような節回しだよ」と、こともなげに言葉を返すのです。「まいった」と思いました。賛美歌は高尚で演歌は下世話という私の思いは、この返事で逆転されました。

じっくり聞いてみると、演歌は人の心の微妙な動きや情感を見事に歌い上げているのに感心するばかりです。賛美歌も演歌くらい微妙な信仰の心を歌い上げてくれないかなと思うほどです。もし演歌の作詞者に賛美歌の作詞を依頼して、演歌歌手にその賛美歌を歌ってもらったら教会は変わるだろうなとひそかに思っているのは私だけでしょうか。

 

賀来周一著 新版 実用聖書名言録(キリスト新聞社)より

関連記事