不条理な苦しみも真理の前には恐れなし

第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 (コリントの信徒への手紙一、1章25節)

【解 釈】
パウロがギリシアの町コリントの教会に宛てた手紙の一節である。パウロがこ の言葉を語る背景には、ギリシアの文化がある。イエスが生まれたころ、ギリシアには、最盛期は過ぎたとはいえ見事な文化の花が咲いていた。アテネのアクロポリスの丘にはパルテノンの神殿があり、エピクロス派やストア派の哲学が盛んであった。パウロがギリシアで伝道を始めたころ、アテネの町では、人々を感心させるようなしゃれを言う知識人や、弁舌さわやかな雄弁家がもてはやされていた。それに比べると、当時の片田舎であるエルサレムから出てきたキリスト教を知る人はほとんどいなかったし、ましてそれを語る伝道者たちは、話す言葉もぶっきらぼうで、いかにも教養のない人間のように思われた。しかも、イエスが神の子であるなどという話の内容も、知的なギリシア人から見ればばかばかしいと思われた。

けれどもパウロたちにとってはキリストのことは、実際に見たり聞いたりした ほんとうのことだったから、どうしても話さずにはいられなかった。エルサレムから出てきた田舎者と、当時の世界の知恵を代表すると自負するギリシア人とでは、まるで子どもと大人の相撲のような感じだったが、それでも臆することはなかった。その意気込みを乗せた一節がこの言葉なのである。

【こころ】
パウロのいう「神の愚かさ」とは、キリストの十字架と復活の出来事を意味しています。この出来事が意味することこそ、聖書のもっとも中心的なメッセージなのですが、彼はこの話が、当時の文化の中心地ギリシアから見れば、はなはだ荒唐無稽な話に聞こえることもよく知っていました。その荒唐無稽な話を、聖書が伝えるままに言えばこうなります。十字架の出来事は、神の子キリストが神から見捨てられて死んだということであり、復活はそのキリストが死からよみがえったというのです。いかにも愚かしい話ではありませんか。だれがこれをまじめに信じるでしょうか。だから「神の愚かさ」なのです。しかしパウロは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言います。なぜ彼は臆面もなくこの「愚かさ」を持ち出すのでしょう。

宗教改革者ルターは、「キリストは私のために死んでくださった」という信仰がなければ福音的ではないと言います。ほんものの信仰ではないという意味です。十字架と復活の出来事は、出来事としてだけ見れば愚かしい他人事です。しかし、私のための出来事となるときには、もはや愚かしい他人事ではすまされません。十字架は、神の子キリストが神から見捨てられるという不条理のなかに身を置き、私の不条理体験を共にしてくださる方として私のためにいてくださる出来事なのであり、復活は、死んでいく私のためにキリストが死の死となられた出来事であることを意味します。 十字架と復活の出来事が私のために起こったことを知るとき、もはやそこに神の愚かさはありません。

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