老いつつ「これから」を生きる
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。(詩編71編9節)
【解 釈】
老いるということは、あまり愉快なことではない。若さに価値を置く現代社会にあってはなおさらのことである。肉体にしても、精神にしても、老いは凋落(ちょうらく)のときである。その老いは避けて通れないだけに、正直なところ人を憂鬱にさせる。しかしそれにもまして、人生の終わりが近づくにつれ、まだまだやり残したことが多いのに気づく。「老いるとは、未完の業を受容するプロセスである」という言葉がある。人生は、すべてこれでよしとは言えないのが現実である。あれもこれもと思っているうちに人生の日が尽きる。
明らかにこの詩編の作者は、そのような老いの日を感じながら残りの人生を送っているのであろう。けれども、老いが人生の終わりを告げるときを待つだけであるなら、残り少ない時間をあきらめに譲らねばならない。作者はそれを「よし」としないのである。老いは死の近づきにはちがいないが、なお残りのときを豊かに生きたいのである。そのためには、これまでのすべてが「よし」とは言えない人生であっても、その人生をそのままにそっくり引き受けてくださる方を知っているか知っていないかで、老い方にちがいが生じる。作者は、残りの人生を引き受けてくださる方がいますことを知って、今日という老いの日を生きようとしている。
【こころ】
人は老いを相手には認めるが、自分には認めないと言われますが、歳を取って久しぶりに友人と出会うと、彼も年寄りになったなあと思う反面、心のどこかで自分のほうはまだ若いと思っているのですから、勝手なものです。アンドレ。ジイドは、 かつてずいぶん年寄りだと思っていた年齢に自分が差しかかってみると、案外歳を取ったとは思わないものだと言います。人は、いつも自分より15歳上の人を年寄りと考えているそうです。65歳の人は80歳の人を年寄りだと思い、75歳の人は90歳 の人が年寄りだと思うということでしょうか。老いは他人にはやって来るが、自分にはまだやって来ない、そう思っているうちに、老いは容赦なくやって来ます。
そして、老いと共に死を迎えることになります。「まだ、まだ」という言葉しか思いつかなかった人生に、「これまで」というサインが突きつけられます。思いがけなく早くやって来た終着駅を間近に、降りる心の準備をしなければなりません。その心構えをどうつくるか、これは老いる者にとって重大問題です。それほどゆっくりとしている時間はありません。
詩編の作者は、この重大問題を自分に突きつけているのです。これまでがどのような人生であったかは分かりません。なに不自由ない暮らし向きであったか、まだまだ死ぬに死ねない事情があるのか明らかではありません。彼にとって人生はいつまでも「まだ、まだ」であってほしいのです。「これまで」と言われては困る、そう思ったのです。し かし作者は幸いなことに、「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」と一切を受けとめてくださる方を知って、「これまで」でなく、「これから」の人生に挑戦しようとしているのです。