なにを優先すればよいのか

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第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

イエスはその人に、「鋤(すき)手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカによる福音書9章62節)

【解 釈】 弟子としてイエスに従うことを望む者が、家族にいとまごいをさせてくださいと言ったところ、イエスはそれを許さず、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのである。この言葉の背景には、旧約聖書の列王記上19章20節でエリヤがエリシャを後継者として召し出すとき、畑にいたエリシャが家族に別れを告げてエリヤに従ったという出来事があった。イエスは、弟子として従う者にエリシャ以上の覚悟を求められたのである。

イエスの弟子となることは、この世の絆を断ち切って厳しさに耐えることであると理解することもできるが、人情からすればあまりにも冷酷非情な印象を与える言葉でもある。しかしイエスの真意は、白黒をつけてどちらかにしなさいと言うのではない。イエスに従うには、なにがもっとも優先されるべきかを教えているのである。しかも、この世においてもっとも優先されるべき家族を差し置いて
でも優先するものがあるのだということをイエスは教えているのである。

【こころ】 私が神学校を卒業してすぐ赴任した教会は、事情があって、ほんの少しの会員だけが残っていました。なんとかして教勢を盛り返したいと思い、当時よく聞かれていたルーテルアワーというラジオの伝道番組の聴取者名簿をたよりに朝から晩まで毎日せっせと訪問を続けました。ある家では、なにをしに来たかと不審の目で見られ、ある家では玄関払いを食らったこともありました。なかには、この次は教会に行きますからと返事があり、喜んでいると、次の日曜日の礼拝には姿が見えず、がっかりすることもありました。とにかくも一年間、名簿をたよりにせっせと訪問を続けました。けれども、いっこうに教会に人が増える様子はありません。私は牧師には向いていないのではないか、もうやめようかと幾度か考えました。キリスト教関係の新聞や雑誌を見ると元気のよい教会の話ばかりで、教勢のあがらない教会から見ると、自分のところはまるで牧師に熱心さがないかのように、神さまからも見放されたかのようにしか思えません。

しかし、せっかくここまで来たのだから引き返せないと自分に言い聞かせながら、自転車に乗ってせっせと訪問だけは欠かしませんでした。その教会には都合3年いたのですが、3年目には30人を越すようになっていたと思います。もっと優れた牧師ならも
っと大きく教勢を伸ばしたかもしれません。しかし、そのころの私にとっては最大の努力だったのです。

それからほぼ40年経って、そのころ教会にいろいろな形で集っていた人たちと一堂に会する機会がありました。当時大学生だった人たちが大学教授であったり、病院長であったり、会社の社長になっていたり、お孫さんに囲まれた貫禄のある主婦であったりしました。そのころ小学生で教会学校の生徒だった人が、教会の役員をしていました。

後ろを顧みたくなる思いと戦い、鋤に手をかけっばなしにしておいてよかったと、このときほど強く思ったことはありません。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より

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