「してやる」から「させていただく」ヘ

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマの信徒への手紙12章15節)

【解 釈】
パウロはローマにいる信徒に対して、どのような人と人の関係が望ましいのかを教えた。当時の世界の中心地ローマにある教会にはさまざまな信徒がいたと推定される。なかには当時のエリートと目される人もいたかもしれないが、貧しい人たちもいたにちがいない。けっして均一な集団ではなく、それぞれにちがった思いや苦悩を帯びた人たちの集まりであった。それらの人たちが、ひとつ思いになって同じ信仰に立つためには、ばらばらに孤立したままであってはいけない。相互に連帯しなければならない。

パウロはそのために組織や制度を整えて、均質な集団を作ろうとは考えなかった。彼は、人がほんとうの意味で連帯するためには、心と心がひとつにならなければならないと考えたのである。その思いが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉になって現れたのである。もっとも深いところで人が連帯するためには、それこそ喜びも悲しみも共有する関係がなければならない。そこにこそ人間関係のほんとうの姿があるとパウロは考えたのである。

【こころ】
 教会に重度心身障害者の人たちが数名いました。青年たちと一緒に集まりをするときなど、つい思わぬことが起こります。みな車椅子の生活ですが、元気のよい青年に車椅子を押してもらうときなど、廊下の曲がり角で、思わず腕などをぶつけることがあります。青年は「ごめん、ごめん」と平あやまりにあやまります。

ときには服を着せたり、靴下をはかせたりすることもあります。体に障害がありますから、健常者のように早く上手に着せることができません。慣れない青年は、もたもたしながら、ぎこちない手つきで着せることもあります。突っ張ったような姿勢の相手に着せるのですから、着せられる方は痛いかもしれないと、見ているほうがはらはらしているのに、障害をもつこの人たちは、ニコニコとされるがままなのです。痛いとか、もう少し優しくとか注文をつける姿を見たことはまったくありません。すべてされるままです。

こんな姿を見ていると、私たちがこの人たちになにかしてあげているなどという気持ちは吹つ飛んでしまいます。むしろ逆に、私たちのために喜んでくれているのであり、私たちのためにそのまま素直に痛みに耐えてくれる者の姿を見るのです。

私たちは、苦しみのなかにいる人や悲しんでいる人になにかしてあげようとして、相手のそばにいようとします。そして、なにか良いことをしているかのような気持ちになっていることがあるのです。しかし、ときとしてそれは傲慢さに通じることだってあるのです。むしろ共にいてくれるなかで、私たちが喜ぶように、私たちが痛みを知るように、さからわず、されるがままになってくれる者がいることを、この人たちは教えてくれます。ここには人間関係の極めつけとでも言うべきものがあるのを見るのです。

関連記事