痛みや悲しみを共に負う

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第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった……。(イザヤ書53章4節)

【解 釈】

 旧約聖書の歴史には、バビロン捕囚時代といわれる国家的苦難の時代があったことが知られている。紀元前6世紀、弱小国であったユダ王国がバビロニアの王によって滅ぼされ、屈強な者はすべて異国の都バビロンに捕虜として連れて行かれ、ほぼ半世紀の間、故郷エルサレムに帰ることができなかった。その間、人々は故郷を偲び、嘆き悲しみのときを過ごすのであった。やがてペルシア王キュロスによって解放され、故郷に帰還することができた。この経験を通して、人々のなかに今までとはちがった救世主の姿が浮かんできたのであった。それがいわゆる苦難の僕である。強い王のような救世主と対照的に、いかにも弱々しげなイメージをもった救世主であった。イザヤ書53章は、その苦難の僕を歌った歌である。

僕は、それこそ人々の苦難に満ちた姿そのままであった。まるで自分を見るように人々は僕を思い浮かべたにちがいない。自分たちの身代わりとでもいうべき救世主であった。真の救い主とは、強さによってすべてを服従させるのでなく、痛みを共に負い、悲しみを共に悲しむ者なのだという信仰がここから生まれてくるのである。

【こころ】
ある神学生がとても感動した面もちでこんな話をしてくれました。土曜日の午後遅く、ひとりの信徒があわただしく教会に駆け込んできたというのです。
「先生申しわけありません。今日は会堂を掃除する当番でしたが、遅れてしまいました。今から掃除をしますから」
彼はそう言って、遅れたお詫びを背中いっぱいに表しながらほうきを握って掃除を始めました。そこにいた牧師も黙って彼と一緒に掃除を始めました。実は掃除は、彼が来るのが遅いので、牧師と神学生ですっかり終えていたのです。神学生は、「もう掃除はすみましたよ」という言葉がつい口から出そうになるのですが、牧師が黙々と手伝っているので、とうとう言葉に出せず、三度目の掃除を手伝う羽目になったのでした。信徒が帰った後、神学生は牧師に、
「どうして、もう掃除はすんだと言わなかったのですか」
と尋ねましたが、牧師は、さりげなく一言こう言ったそうです。
「せっかく来てくれたのだから」
どこにでもありそうな出来事とはいえ、そのなかに考えさせられるものがあることを体験した神学生は、しばらく経って自分のなかに会得したものがあったのでしょう。
「牧師は、あの信徒の申しわけなさを一緒に負ったのですね」とつくづく感心してそう洩らしていました。

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