悲しみのなかに人の真実がある
人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイによる福音書 5章4節)
【解 釈】
山上の説教と言われるイエスの教えの一部である。ここで言われる「悲しみ」 とは、とても強い悲しみを表す言葉で、泣きわめく、叫ぶほどの激しい悲しみのことである。通常私たちは悲しんでいる人を見ると、慰めるためにはどんな気の利いた言葉があるのだろうと探し回る。しかし、激しい悲しみのなかにいる人に 向かって、こう言えばよいという言葉はなかなか出てこない。語るべき言葉もなく、悲しんでいる人と 一緒になってただ泣くだけのこともある。慰めになる 一言でもかけられないものかと、なんとももどかしい思いがする。しかし、悲しみの極みにある人にとっては、気の利いた言葉を聞くより、黙ってそばにいてくれるほうがむしろ慰めとなる。
おそらくイエスの説教を聞いている人たちは、いろいろな悲しみを抱いていたにちがいない。その人たちに向かって、イエスは気の利いた慰めの言葉を投げ掛けているわけではない。ただ彼らのかたわらに立って、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と言うだけである。イエスがそばに立つ。慰めはそこにあると聖書は言っているのである。
【こころ】
現代の社会は悲しむことをなかなか気前よく許してくれません。涙はこの 社会で生きるためには不都合なものとされているようです。会社であれ、家庭であれ、 なるべく悲しみの涙は早く拭い去って、働きの一線に復帰するように社会は要請します。 私たちもまた、「いつまでもくよくよしていないで、元気を出して」と悲嘆にくれる人に向かって言います。悲しみはあたかもあってならないかのようです。
でも、そうでしょうか。悲しみは、意味のある重大な対象を喪失したときに起こると言われます。人にとって意味のある重要な対象を失うとき、そこに嘘や偽りがあるとは思われません。言ってみれば、悲しみのあるところにはかならず真実があると言ってよいでしょう。その真実を通して人はほんとうのものに触れ、それによって生きる意味を発見するにちがいないのです。悲しみがなければ見過ごすであろう人の真実がそこにあります。その意味で悲しみは、あってならないことではなく、むしろ大切な人の営みです。そのことが十分に分かって 「悲しみを避ける必要はないのだ、もっと悲しんでよいのだ」と言ってくださる方がかたわらにおいでになると聖書は言っているのです。