いつもあなたの心に寄り添って
イエス様って私たちにイエス様の方から近付いて来て共に歩んで下さっているんですね。そして、驚いたことに悩んでいる私の心に「どうしたの?」と言って寄り添って下さる。私は、そのようにいつも私の心に寄り添って下さるイエス様に気付いているのでしょうか。私が気付いても気付かなくても神様であるイエス様はいつも...
イエス様って私たちにイエス様の方から近付いて来て共に歩んで下さっているんですね。そして、驚いたことに悩んでいる私の心に「どうしたの?」と言って寄り添って下さる。私は、そのようにいつも私の心に寄り添って下さるイエス様に気付いているのでしょうか。私が気付いても気付かなくても神様であるイエス様はいつも...
マリアは言います。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』ルカ1:38 これは「神様、私はあなたに仕えています。(信じています。)あなたが用いて下さることを信じて私の全てをお委ね致します。」と言うことで決して「神様、勝手にして下さい。」と自分を投げ出してしまうこととは違います。
あなたは何度イエス様と出会いましたか?今日与えられました聖書の箇所「ヨハネ21:14」で、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と語られます。
ヨハネによる福音書の1章1節は「初めに言(ことば)があった」と始まります。イエス様が語りかけられるみ言は、聖書を読んでいる私たち一人一人に今も語りかけられています。私たち一人一人は今どこで生きているでしょうか。私たち一人一人の命はどこで誰が造ったのでしょうか。
おはようございます。ひそかにイエス様に終わりの時の徴について聞く弟子たちに「私はあなた方一人一人と共にいて、全てを与えているじゃないか、まだわかってくれないのか。」とイエス様は言われません。ただ、「人に惑わされないように気を付
「ばっかじゃない。この人こんなに何回も使用人にひどい目にあっているのに」と思われる方も少なくないと思います。実際この聖書の箇所を読んだとき私も思いました。
「どうして私なんかのために」「私なんかそんな価値はありません」「私はあなたを知りません」そのような声が聞こえてきそうな気がします。
「○○お帰り」と言われる時に私たちはどんな気持ちになるでしょうか?ホッと安心したり。「私なんかでも待っていてくれたんだ、ありがとう。」って思ったり。なんかそれは当たり前のことに思えたり。でも、あなたの帰る場所は、あなたを待ってくれている方がおられるところにしかありません。待ってくれていると信じるか...
お祈りは手紙のようです。宛名がなければ届きません。 たとえ、どんなに心に思っていたとしても、相手にわかる言葉で、自分自身も納得して、自分が手紙を出したい相手の宛名や住所が記されないと、自分の希望する相手には届きません。
「人を殺すな」と言われたら私たちは「大丈夫。そんな犯罪は起こさないと思うわ。」と言うかもしれません。でも「人を恨むな」と言われても、自分に何が起こるかもわからない今「そんなことしません」と自信を持って言えるでしょうか。