
ヨハネ13:1-20
今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、主イエスが弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。 聖書の語られた時代「足を洗う」行為は、奴隷によって行われている仕事の一つでした。 舗装もされていない道を裸足に近い状態で歩いて旅をしてき...
今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、主イエスが弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。 聖書の語られた時代「足を洗う」行為は、奴隷によって行われている仕事の一つでした。 舗装もされていない道を裸足に近い状態で歩いて旅をしてき...
「ねぇ、本当?」そのように言いたくなるような言葉が弟子の口から語られます。 『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』 マルコ14:31 でも、イエス様は問いません。弟子のその時の気持ちを大切に思われるからです。
『神よ、わたしを憐れんでください』詩編51:3 と詩人は詩(うた)い出します。 しかし、神様は「何をいまさら言ってるんだ、もう私はとっくにあなたを憐れんでるではないか」と怒り、一人一人の祈りにいちいち腹を立てられるのではなく、神様は「私に心を向けてくれて、ありがとう」と一人一人に心を留めて下さい...
ヨハネによる福音書の1章1節は「初めに言(ことば)があった」と始まります。イエス様が語りかけられるみ言は、聖書を読んでいる私たち一人一人に今も語りかけられています。私たち一人一人は今どこで生きているでしょうか。私たち一人一人の命はどこで誰が造ったのでしょうか。
おはようございます。ひそかにイエス様に終わりの時の徴について聞く弟子たちに「私はあなた方一人一人と共にいて、全てを与えているじゃないか、まだわかってくれないのか。」とイエス様は言われません。ただ、「人に惑わされないように気を付
「ばっかじゃない。この人こんなに何回も使用人にひどい目にあっているのに」と思われる方も少なくないと思います。実際この聖書の箇所を読んだとき私も思いました。
「どうして私なんかのために」「私なんかそんな価値はありません」「私はあなたを知りません」そのような声が聞こえてきそうな気がします。
「○○お帰り」と言われる時に私たちはどんな気持ちになるでしょうか?ホッと安心したり。「私なんかでも待っていてくれたんだ、ありがとう。」って思ったり。なんかそれは当たり前のことに思えたり。でも、あなたの帰る場所は、あなたを待ってくれている方がおられるところにしかありません。待ってくれていると信じるか...
お祈りは手紙のようです。宛名がなければ届きません。 たとえ、どんなに心に思っていたとしても、相手にわかる言葉で、自分自身も納得して、自分が手紙を出したい相手の宛名や住所が記されないと、自分の希望する相手には届きません。
「人を殺すな」と言われたら私たちは「大丈夫。そんな犯罪は起こさないと思うわ。」と言うかもしれません。でも「人を恨むな」と言われても、自分に何が起こるかもわからない今「そんなことしません」と自信を持って言えるでしょうか。