
あなたは今、神様に命を与えられ生きている
私たちが今生きている世界が、とてもとても大きく感じることもあれば、 とても小さく感じることもあります。 自分自身の存在もとても大きく見えたり、小さく感じたりします。 でも、実際の大きさは変わりません。 変わるのは自分の持つ価値観です。
私たちが今生きている世界が、とてもとても大きく感じることもあれば、 とても小さく感じることもあります。 自分自身の存在もとても大きく見えたり、小さく感じたりします。 でも、実際の大きさは変わりません。 変わるのは自分の持つ価値観です。
海に漁にでる漁師さんが「私は漁に行く」と言っても何の不思議はありません。 しかし、それは時と場合にはよらないでしょうか? 今、ご一緒にお読みした聖書の箇所のヨハネ21:3において、ペトロさんが言った時はまだ、 イエス様を十字架にかけて殺してしまった人々が、 イエス様の弟子だった自分たちを捕まえに来る...
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、「最後の晩餐」と題されていて、 有名な画家の絵の題材にされたりした箇所でもあります。 聖書に書かれている通り、イエス様がいよいよ十字架に掛けられようと、 捕えられる前に最後に行った弟子たちとの夕食の場面です。 これは、今も行われている聖餐式の初まりでもあ...
私たちはいつも、私たち一人一人のために、 キリストイエスが十字架の苦難の先の、命への道を歩まれておられることを 思い返す日々を共に歩んでます。
皆さんのイエス様のイメージっていったいどんなでしょう。 お一人お一人がお持ちになられているイメージの細かい所は違っていても、 だいたい同じで、穏やかでやさしい方というイメージが大半ではないでしょうか。 ところが今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、 ほとんどの方のイメージとは違って、...
皆さんは「許す」ということの難しさと大切さを感じられたことはあるでしょうか。 「こんちきしょう、おまえなんか死んでしまえ。」と思っていた人が 本当に亡くなってしまったら、言いようもない後悔や後ろめたさが残ってしまう。 そのような思いをされた方もおられるかも知れません。 そのような思いは意識的であ...
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に語られているイエス様のお姿は、 いつも聖書に語られている温和でやさしいイエス様のお姿とは全く違い、 激しく怒り悲しむ姿が語られています。 しかし、イエス様は決して感情的なヒステリーを起こして、 周りの人々に当たり散らしたのではありませんでした。
「二つのものを一つにする」って簡単に言いますが、実は難しいことです。何か多数決で意見が多かった方に少数派が屈するとか、強い勢力に吸収合併されてしまって二つのものが一つになるとは違います。
今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、主イエスが弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。 聖書の語られた時代「足を洗う」行為は、奴隷によって行われている仕事の一つでした。 舗装もされていない道を裸足に近い状態で歩いて旅をしてき...
「ねぇ、本当?」そのように言いたくなるような言葉が弟子の口から語られます。 『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』 マルコ14:31 でも、イエス様は問いません。弟子のその時の気持ちを大切に思われるからです。