
イエス様が一緒だから大丈夫
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に語られているイエス様のお姿は、いつも語られている温和でやさしいイエス様のお姿とは全く違い、激しく怒り悲しむ姿が語られています。しかし、イエス様は決して感情的にヒステリーを起こして、周りの人々に当たり散らしたのではありませんでした。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に語られているイエス様のお姿は、いつも語られている温和でやさしいイエス様のお姿とは全く違い、激しく怒り悲しむ姿が語られています。しかし、イエス様は決して感情的にヒステリーを起こして、周りの人々に当たり散らしたのではありませんでした。
あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたも永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(ペトロの手紙一、5章10節)
主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。」(エゼキエル9:9)
神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。(コリントの信徒への手紙二、 7章10節)
今まですべてのことを私は一人で乗り越えて来たんだ、と思われている方は少なくないかもしれません。そうではなく、なぜ今自分は無事でいられるのだろうかと不思議に思っておられる方もおられるでしょう。今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「共におられる神様」を力強く私たちに詩(うた)っています。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(コリントの信徒への手紙一、15章55節)
教会で、ポスターのこんなキャッチフレーズを目にしたことがあります。「命って誰のもの?」というもので、それはどこかのキャンプで今回テーマにされるものをアピールするものでした。「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントの信徒への手紙一、12章26節)
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「詩編15:1-5」にはとても完璧な行いをする人こそ神様に選ばれた者として、聖なる宮に入ることがふさわしいと詩っております。「わかってはいるけどその通りできないわ。」というのが人間です。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙一、 10章13節)