降誕劇とヘロデ王|ヘロデ王とは何者か
(97)
「保育園の降誕劇にヘロデ王は登場しない、『ヘロデ王をやりたい』という子どもはいないから」と書いたのは先週。「ヘロデ王イコール悪役」というイメージが強いし、主の降誕という状況を説明するだけなら、無理に王を登場させる必要はないということもあるだろう。しかし、福音書を書いたマタイは「ヘロデ王」を登場させたのである。時代を確定させるという意味もあるだろうが、それ以上にキリスト降誕にはヘロデ王の存在が必要不可欠だったからだとしか考えられない。
何故だろう。私見だが、大きな理由は二つと考えている。第一の理由は、ヘロデ王を全ての人間の代表として登場させようとしたことである。ヘロデはローマの力を借りてイスラエルの地を安定させようとした。紀元前37年に実質的な王に就任すると、大規模な建設事業を次々に行い、エルサレムの第二神殿の改修も行った。その一方、彼は王という地位を守るために、妻子すら殺してしまうほど残忍であった。そのように聞くと、「いやいや王という強大な権力は我々にはないし、まして家族を殺したりする程の悪人ではない」と言いたくなるが、イエスの裁判の際に「十字架につけろ」と声を上げたのは、そそのかされたとはいえ群衆であったことを忘れてはなるまい。ヘロデ王の存在は十字架の時の予兆に過ぎないのであり、神の救いの出来事の始まりに、極端ではあるがヘロデを代表とする罪の世界を伝えようとしているのである。
第二の理由は、「奴隷からの解放」の出来事である出エジプトの再現である。新しい王の居場所を知ることが出来なかったヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。恐らく学者たちがその星の存在を知った時が二年前と聞いたからであろう。(この事件について聖書以外に記録は見つかっていないことも付記しておく。)エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、モーセによって解放され約束の地を目指す。解放に導いたのはエジプトを襲った災いであったが、災害や疫病でも頑なであったエジプト王が解放へと舵を切ったのは、「暗闇と国中の初子の死」であった。同じ幼児虐殺の出来事を通して、マタイは「第二の出エジプト、即ち罪の奴隷からの解放」を告げようとしているのである。
「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)出来事、それがクリスマスである。「新しい王を迎えるのか、それとも新しい王を殺してしまおうとするのか」、マタイは私たちにそう問いかけているのかもしれない。だからヘロデ王の役になって考えてみるのも有益ではなかろうか、彼は「悪役」ではなく「私たち自身」にほかならないのだから。