知っているよ!

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「嵐の中でもがいている弟子たちのところに、湖の上を歩いてイエスが近づいてこられた。ペトロはイエスの『来なさい』と言う言葉を信じて、水の上を歩き始めたが、波の大きさに気付き溺れかかった。イエスに助けられて船に上がると、イエスは『信仰の薄い者たちよ』と言われた。」(マタイ16章)信じて歩き出したのに、周りの波に信仰が奪われてしまったペトロに向けられた厳しい言葉である。その厳しさは、ペトロ(同乗していた弟子たち)への叱責なのだろうか?

”信仰おばあさん”という話がある。「熱心なおばあさんがいた。祈りを欠かさず、聖書に親しみ、集会や礼拝を休むことはなかった。ある日、彼女の家が火事になった。炎の中で、『神様、助けてください!』と祈ったが、残念ながら彼女は命を失った。気が付いたら天国の門にいた。門番に『私は熱心に信仰を守ってきた。だから天国に入れてください。』と言うと、門番は奥の方から籠に入れた沢山の紙を持ってきた。『あなたが行ってきたことはこれですね。』彼女が頷いた瞬間、風が吹いて門番が持っていた紙はあっという間に吹き飛ばされた。しかしたった一枚残っていた、そこには火事の中で叫んだ言葉が記されていた。門番はそれを見て『あぁ、あなたは実に信仰深い。どうぞお入りください』と門を開いてくれた。」表向きの熱心さではなく、このおばあさんの深いところに存在する「神への信頼」を、神は知ってくださっている事を意味している。もちろん、熱心さが悪いということではないが…。ペトロへの厳しい言葉は、「私を信じて歩き出したじゃないか、それを忘れないでほしい」という深い愛の言葉であったのではないか。

自粛生活が長くなると、限られた媒体からしか情報を得ることができなくなる。それは「限られた情報」でしかないのだが、いつのまにかその情報が全てのように思い込んでしまう。しかし情報としては届かないが、多くの人は感染しない・感染させないために、誰もほめてくれる訳ではないけれど、自分に出来る最大限の努力をしておられるはずである。その気持ちを支えるものは、「あなたの努力を知っているよ」という心だろう。かつての使徒たちが迫害に遭いつつも宣教の業に携わり続けられたのも、「すべての人の心をご存じである」(使徒言行録1:24)という信仰であったように。

「今、あなたが精一杯予防に努めた生活をしていることを知っているよ、ありがとう」と、神はきっと喜んでくださっているに違いない。だから私たちも、条件付きではあるが礼拝を続け、「あなたの労を知っているよ」というメッセージを届け続けたい。

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