聖書と常識~桜の花を見て~
祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
暖かい日が増え、過ごしやすい日が続くようになりました。ありがとうございます。
「当たり前のことは一つもない、今生きていることを大切にしたい。」以前テレビでみた仙台の学校の卒業生の言葉が心に残ります。
私たちは今ここに生きています。命を与えられて、かけがえのない今を生かされています。
そのことを思えるとき、ありがとうが心から溢れます。
これからもあなたに与えられるかけがえのない一瞬一瞬を感謝して過ごせますように。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【聖書】ルカによる福音書24章36〜43節
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所において、復活の主イエスに出会った弟子たちの話を聞いて、不思議に感じていたほかの弟子たちの真ん中に復活の主イエスが立ち「あなたがたに平和があるように」と語られ、復活された体を証明するために共に食事をされる場面が語られています。
「イエス様は十字架上で息を引き取られてお墓に葬られたはずだから、今目の前におられるはずはない。」と誰もが思って驚いたことでしょう。しかし、イエス様は生前「私は三日の後よみがえる」とおっしゃっていました。誰もそんなことは本気にしていなかったのでしょう。でも、イエス様は「そんな薄情な人はもう知らない!」と怒られるのではなく、弟子たちがわかる方法で、わかりやすくゆっくりとご自分の存在をお示しになります。
私たちは常識とか物の順番とか価値観にとらわれて大切なことを見失ったり、後回しにしてしまったりすることが多いような気がします。
時には無駄な時間に感じる時に、意外なものから大切なことを教えられたりします。それらはイエス様が一人ひとりわかりやすい方法でわかるようにと、私たち一人一人に歩み寄って下さっておられるのではないか、そんな気がします。
私が座っている席から桜の木が見えます。花が咲いたのを見て「あ、この木は桜の木だったのか」と驚いたり、新緑が茂って「桜の木は春だけじゃないんだな」と思ったりしていました。以前、礼拝を行っている部屋の窓から見えるあの桜の木のてっぺんは、いつも私の席からみえているあの桜の木なんだということに初めて気づき驚きました。
見る・見える、信じる・信じられる、など多くのことが自分の常識や関心で見えなくなったり、信じられなくなったり、いろいろとあることを感じさせられました。しかし、主イエスはそんな一人ひとりに歩み寄り、一人ひとりにふさわしい方法でご自分の存在をお示しになります。