何のために生まれてきたのだろうと思う時の聖書~あなたが必要~
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
今、土の中からたくさんの命の息吹が出始めています。
今年は例年より気温が低くなかなか春の気配を私たちは感じることができませんでした。
しかし、神様あなたが私たちに与えて下さる一つ一つの恵みには平均的な値や重さの違いなんてありません。
神様、あなたは一人一人に十分な恵みや愛を、慈しみを持って注いでいて下さいます。
今日もあなたに感謝いっぱいで過ごすことができますように。
これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:エゼキエル9章9節、10節】
主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。
「何のために、私は生まれて来たのだろう。」このような思いを、少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。「何のために私は生まれて来たのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。ではイエス様はどうでしょうか?イエス様は何のために生まれていらっしゃったのか。
3月5日に「灰の水曜日」を迎え、私たちはイエス様の十字架への道への歩みを覚える受難節を迎えました。イエス様は十字架の上で死ぬために生まれたのでしょうか。いいえ違います。神様から生をこの世に受け、神様に必要とされて生かされたのです。それは私たち一人一人も同じです。今、生きているのは、今ここであなたという存在が必要だから神様に見える存在としての命を与えられています。見えない存在として必要とされ、生かされている命もたくさんあります。じゃあイエス様と私は同じ?私たち人間は、地上で生きられたイエス様のように生きようとすることもできるでしょう。しかし、神様であるイエス様のように、神様と人間の架け橋そのものにはなれませんがイエス様と人間を繋ぐ心や祈りを、人々に分けることはできます。私自身がどんなに小さくて弱く感じていても、そのようなありのままのあなたを神様は用いて下さいます。
「何のために私は生まれて来たのだろう。」ではなく「神様があなたを必要とされているから今、あなたは命が与えられている」のです。