あなたのために
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
桜の開花に、何だか陽の光も空の色も春を感じさせてくれます。
そして、この季節はたくさんの別れがあり、新しい出会いも私たちに与えられます。
それら一つひとつに私たちは悲しみを覚えたり、喜びを感じたりさまざまな思いで心動かされます。
しかし、神様あなたとの出会いはたくさん与えられますが、決して神様あなたと別れることはありません。
たとえ私がうっかりあなたを忘れてしまうことがあっても、神様あなたは私を忘れないからです。
ありがとうございます。
これから語られますみことば、この語る者を通して、
ここにおられるお一人おひとりへと、そしてそれぞれの心にある方々お一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン
【聖書】マルコによる福音書14章43〜52節
しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。(49節)
「え、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばにであわれる方も「イエス様って、そんなにいつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くために、ユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。でもイエス様は言われます「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、。。。」(14:48〜49)と続きます。「聖書の言葉が実現するためである。」とも続けられています。イエス様は逃げも隠れもしていません。
では、イエス様は何を大切にしておられたのでしょう。それは神様の御心です。「聖書の言葉が実現するためである。」と言うのは「神様の定められる時を大切にされる」ということでもあります。ユダもイエス様を大切にしてました。しかしユダが大切にしていたのは神様の御心に従われるイエス様ではなく、ユダ自身が考える英雄である奇跡を起こされるイエス様だったのかもしれません。だからイエス様を捕らえようとしている人々に合図を送る時「自分が合図するまではイエス様には手を触れない」という決まりを作ることで、イエス様に「捕らえに来ました。逃げて下さい」と合図を送ったようにも感じ、もしかしたら自分も祈ったり願うとき、ユダと同じことをしてしまっているのかもしれないと感じました。
ユダの合図の後、イエス様は捕らえられていきます。しかし、イエス様は従われます、神様の御心に。イエス様を捕らえた群衆や兵士たちではなく、神様の御心にイエス様は従われます。神様の御心、それは私たち一人ひとりが神様に大切にされているということを、イエス様との出会いを通して思い起こすことができるようになのです。
神様の御心のままにこの身になりますように。