節目|牧師の幸い、それは執り成しの祈り

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(208)最終回

2000年4月に市川教会に着任した私の最初の務めは、船橋市の病室であった。重篤な方のご夫人より連絡を頂き、急遽訪問することになったからだ。「先生が市川にお出でになるのを、主人は楽しみにしていたんですよ」と声を掛けられ病室に入ると、点滴をしたまま体を起こし、ベッドに腰かけて笑顔を向けてくださった。「楽しみに待っていてくださった」の一言が、市川教会で働くことの不安を一掃してくれたことを、今もはっきり思い出す。翌週、天に帰られ葬儀を行わせていただいた。こうして市川教会の働きが始まった。

人生には様々な「節目」がある。誕生、入園、入学卒業・・・。勿論、人によって違いはあるし、その節目に立ち会ってくれる人も異なるが、多くの方々の、多くの節目に立ち会う機会を与えられるのが牧師の務めである。それは牧師の就業規則にある訳ではない。牧師の務めの最も大切なことは、「執り成しの祈りを行うこと」だからである。

「万人祭司」ということをルーテル教会は大切にしてきた。「全ての信徒は祭司である」ということであり、祭司の務めの「執り成し」が大切であることを理解しているからに他ならない。特別な教育を受けずとも、愛する人のために私たちは「何かしてあげたい」と切望する。キリスト者は、愛する人のために「神に助け・願い」を請い祈る。それを「執り成し」と表現するのであって、牧師は教会に連なる方々のために執り成し、個々人の節目に牧師だけは立ち会い執り成し続ける。「節目に立ち会うことが出来ない、あるいは求めてもらえなくなったら、その教会での務めは終わる」という覚悟で、私たちは牧会に携わっているのである。

赴任以後、「私の葬儀は先生にお願い」と言い切ってくださった方々に、私は「しません、ここにいる間は生きていて欲しいから」と応えてきたにも拘わらず、40人の方々の、最も大きく最後の節目「死」に立ち会わせていただき、執り成してきた。お一人おひとりの節目に立ち会うことは、牧師であることの重責の表れでもあると同時に、牧師であったからこその幸いでもあったと、心から神に、そして市川で関わらせていただいた皆様に感謝しています。

今、私にとって地上に生ある内の恐らく最も大きな「現役引退」という節目を皆様と迎えられ、本当に幸せな牧師生活であったと心に刻み、感謝してこのエッセイを閉じることと致します。皆様の最も大きな節目に立ち会ってくださるM牧師に次を委ねて、九州から皆様に神様の祝福を祈っています。サヨウナラ!

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