「大丈夫」の根拠|深い絆を繋いで

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友だちが「私が一緒にいってあげるよ」と誘っても「F先生が良い!」。見かねた水族館の係の女性が「じゃぁ、私が一緒に行ってあげるから大丈夫だよ?」と誘ってくれても、「F先生が良い、怖いんだもん」と言い続ける。仕方なく「F先生を捜してくるから、それまでここで待っててネ、我慢できるよネ」と言い残して、薄暗い水族館の中でF先生探し。やっと見つけ事情を話し、「私がこのグループの子をみているので、トイレの前にいるMちゃんをお願い」と送り出す。ほどなくして私が率いていたグループの5人の子とF先生が合流。一件落着、安堵する。「大丈夫!」とは誰でも言える言葉だが、言われた方が「大丈夫!」と思えるかどうかは定かではないのだ。

12年間、出血が止まらずに苦しんでいた女性がいた。イエスのことを聞いて群衆の中に紛れ込み、イエスの服に触った。服に触れればいやしてもらえると思った(信じた)からである。触れたとたん彼女の出血は止まり、癒されたことが分かった。女性がそっとその場から離れようとした時、「私の服に触れたのは誰か」と探すイエスの声が聞こえた。ご自分の力が出て行ったことに気付かれたからである。探し続けるイエスに気付いた女性は恐ろしくなり、進み出て全てをありのまま話した。するとイエスは、「あなたの信仰が、あなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」と言われた。(マルコ5:25~34)イエスはご存じだったのだ、「このまま帰してしまっては、触れた人の身体はいやされても、後ろめたい思いを抱えて生きることになる」ということを。だからイエスは女性と絆を繋ぎ告げようとされたのだ、「もう大丈夫だよ、元気でね、私はあなたといつも一緒だから」と。

クリスマス、即ち福音の始まりに告げられたのは、「インマヌエル=神は我々と共におられる」(マタイ1:23)であった。共にいてくださることを受け入れた時に、私たちは神が「大丈夫!」といつも呼び掛けてくださる声を聴くことが出来ると約束されている。神との絆があるからだ。そう、「大丈夫!」と言える根拠がそこにある。F先生とMちゃんの保育園での日常の関りを、直接私は知らないが、「F先生が良い!」というその一言で深い絆があることを知る。そんな保育園で過ごせた25年間に今は心から感謝している。

「大丈夫!」深い絆を繋いで、これからも沢山の人々に告げてあげたいものだ。