キリストの香り|大切な人に与える私の時間

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金木犀の芳しい香りが教会の庭に漂っている。冬の椿も春の桜も夏のヒマワリも、観て私たちを楽しませてくれる花だが、キンモクセイは趣きが異なる。その花は小さく一塊にしか見えないが、香りで私たちの感性に「秋だよぉ」と働きかけてくるからだ。その芳しい香りを嗅ぐと、連想ゲームのように私は「キリストの香り」という言葉を思い浮かべる。

市川に赴任して2年目、もう21年前になるのだが、チャプレンを務めている社会福祉法人の理事長をやって欲しいと依頼された。牧師一筋18年目を迎えたばかりの時であった。チャプレンの務めと同時に始まった理事の務めにも少し慣れた程度の私に、理事長(代表理事)という務めができるのだろうか、何をしたら良いのだろうか、皆目見当がつかなかった。悩んだ末に、当時東京老人ホームの理事長を務めておられた故U牧師に相談の電話を掛けた。すると先生は「牧師が理事長を務めるということを考えたら良い、キリストの香りを漂わせることに専念したら良い」とアドヴァイスしてくださった。その後16年間務めさせていただいたが、念頭には常にその言葉があった。困難に出会う度に「キリストの香りが漂うような道は何か」と立ち帰らせてくれた言葉ではあったが、正解がある訳ではないので暗中模索の日々であった。

「キリストの香り」という字句は口語訳聖書では2コリント2章15節にあるが、新共同訳聖書では「良い香り」に、聖書協会共同訳では「キリストのかぐわしい香り」に変更されている。とはいえ指し示していることは同じ、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:2)ということに尽きる。それは十字架の出来事ということになるが、同時に十字架にいたる日々をも内含する。公生涯といわれる3年間、罪人・異邦人を問わず全ての人々に寄り添い続けたのが主イエスであった。換言すれば、主イエスはご自分の時間を全ての人のために捧げた(用いた)ということに他ならない。「寄り添うキリスト」それこそが「キリストの香り」に他ならないのだと、理事長を退任してから思えるようになってきた。結果はともあれ、沢山の時間を法人の働きのために献げたこと、神様は褒めてくださる・・・かなぁ。

家族のために、社会のために自分の時間を献げている(費やしている)皆さんに、きっと神様はおっしゃってくださるに違いない、「かぐわしいキリストの香りがするよ」と。

金木犀が終わると季節は冬に向かう。さて冬の香りで私は何を思い出すだろう!

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