笑顔を取り戻せ!|福音は笑顔の源

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施設の学童礼拝を終えて帰ろうとしたら、ロビーに利用者の親子の姿が。私を見た職員が「牧師先生がお帰りだよ」と親子に声を掛けてくれると、1才半位の子が満面の笑みを湛えつつトコトコと近寄って来た。私も笑顔になって、思わず「あなたの笑顔は心を満たしてくれるねぇ」と自分でもよく分からない言葉を掛けていた。(自分では「元気をもらえるよ」とか「嬉しい気持ちになるよ」という事を表現したかったのだが…。)声を掛けつつ靴を履いていると、また近づいてきて手を差し出してくれる。そう、サヨナラの「タッチ」をしてくれるのだ。小さな手にタッチして施設を後にしたが、「やっぱり笑顔は良いなぁ」と噛みしめながら帰路に就いた。

想像したことがあるだろうか、12年間出血に苦しんでいた女性が、イエスの衣の房に触って癒され、「安心して行きなさい」と言われて(マルコ5:25~34)帰る時の彼女の顔を。38年間も病気で苦しみ、ベトザタの池のほとりで横になって待っていた人が、イエスから「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われ床を担いで帰る(ヨハネ5:19)時の顔を。目が見えず物乞いで生きていたバルティマイが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われ見えるようになった(マルコ10:46~52)時の彼の顔を。山上で空腹だった5千人の人々が、イエスに祝福された二匹の魚と五つのパンを食べると全員が満腹した時(ヨハネ6:1~13)の人々の顔を。ある人は満面の笑みを堪えて、ある人は嬉しくて泣きながらも笑顔で、イエスと出会った後の日々を過ごしたことであろう。確かに福音書は「イエスキリストの出来事=福音」を伝えるものであるのだが、現代に生きる私たちはイエスと出会った人々と共に生きるようにと招かれている。だから、イエスのなさったこと、教えてくださったことに心を耳を傾けつつ、日常は癒された人々、新しい人生を与えられた聖書の中の人々と共に生きる者なのだ。だとすれば、私たちがなしている宣教の働きは、関わった人々が「笑顔を取り戻す」ための働きに他ならないのではなかろうか。

施設を利用する人々の全てが笑顔を取り戻すために職員たちは心身を注いで働いてくれている。教会もまた同じで、教会を訪れる人々が笑顔を取り戻すために会員一同が祈り、そして奉仕する。牧師である私は、関わる全ての人々が笑顔を取り戻してくれるために市川の地に遣わされたのだと、25年の働きを振り返って心に刻めている。

「笑顔を取り戻せ!」、聖書の至る所からその声が聞こえる人々こそ、本当に幸いな人に違いない。

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