どんどこ歩いていけば|微力でも、歩き出さなければ

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8月、平和について心を馳せる。主はこう言われた、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)イエスの時代は、ローマという強力な権力に押さえつけられた中での「平和」であった。それに対してイエスは自らの弱さを差し出し、相手との違いを乗り越え信頼し合う中で生まれる「平和」であった。パウロもまた次のように述べている。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14~16)十字架の出来事を通して私たちにもたらされた「平和」について告げられている聖句である。それは第一に神と人との間の「敵意」が取り除かれ、全ての人が神と交わることのできるようになったということ。第二に、全ての人とあるように、キリスト者もそうでない人も、そして場所や時代という隔たりも(人種・性別・身体的違いも)越える平和がもたらされたということにほかならない。しかし、現実には争いがあり、隔たりは深く大きい。隔たりをもたらすものは何かと改めて問う今日である。

「神は待っている、人間がかつてこどもだった頃を分別のなかに取り戻すことを。」(タゴール:川名澄訳『迷い鳥』、8月8日朝日新聞「天声人語」より)この言葉で思い浮かぶ歌がある。「どんどこどんどこ歩いてゆけば♪」、この季節に子どもたちの礼拝で、そしてキャンプで良く歌う。半世紀前には聞くことも歌うこともなかったような元気で楽しい歌だ。「歩いていると友だちがやってきて二人になる。更に歩くと四人になり、次は八人になる」と、友だちが沢山できて嬉しいという気持ちを歌ったものだ。子どもだった頃を取り戻せば、次々と友だちの輪が広がっていく。一人が一人と友だちになっていく「倍倍」を僅か33回繰り返すだけで、80億といわれる世界の全ての人が友だちになれる、タゴールの見詰める先にはそのような世界があったのかもしれない。

8月9日長崎市長は「平和宣言」の中で次のように語られた、「平和をつくる人々よ!一人ひとりは微力であっても無力ではありません。」先ずは一人でも平和のために「どんどこ」歩いてゆこうではないか。微力であっても平和のために歩き続ければ、二人、四人、八人と平和は必ず広がっていく。その時私たちに神が告げてくださるに違いない、「幸いだ」と。

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