褒められたいのに|神様の憐みは、あなたへのお褒めの言葉

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褒められたいのに褒められなかった話:血液検査の結果を、掛かりつけ医師に聞きに行った。開口一番「う~~ん、余り言いたくないんだけど」と口ごもる医者。「どうしてですか、そんなに良くないのですか?」と心配になって聞くと、「殆どが正常値で良くなっている」と。「じゃあ先生、褒めてくれても良いじゃないですか」と反論すると、ニヤリと笑いながら「良くなると調子に乗って節制しなくなるからなぁ!」と。20年近くの付き合いだから私の手綱の締め方は良くご存じなのだ。結局、お褒めの言葉は頂けないまま、「このままで暴飲暴食しないように」と褒められるどころか戒められて帰宅した。

褒められるとは思わなかったのに褒められた話:園長先生から「手を組んで心を静かにしましょう」と、礼拝の初めに言われた3才児たち。前奏が聞こえ始め私は子どもたちに背を向けてローソクに点火。静かだ!まるで誰もいないかのように、子どもたちは静かにローソクが点灯するのを待っているようなのだ。その日のお話の冒頭、私は子どもたちを褒めた「今日は園長先生のおっしゃったことをとても良く守れましたね、まるで光組(年長5才児クラス)さんみたいでした」と。子どもたちの顔が一斉に明るくなり、笑みがこぼれる。思いがけず誉め言葉をもらったのだもの・・・。

褒めてあげなければいけないのに褒めなかった話:褒めるより先に、努力や励ましをしてしまったことを数えきれないほどやってしまった、子育ての最中に。精一杯やっただろうに、その過程には目を向けず結果だけに、しかも大人目線で判断して、もっと上をと指し示してしまったことが。そして何よりも一番長く一緒に生きて来た連れ合いに対して、褒める言葉を掛けてこなかったなぁ。

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)人々に向けられたイエスの思いをひと言で表すと、「憐み」であり、様々な状況で人々に向けられた思いとして記されている。社会が、あるいは共同体が見放し苦労を背負わされ、それでも必死に生きてきた人々に向けられた憐みには、「よく耐え生きて来たね」というお褒めの言葉の意味が含まれているはずだ。全ての人を救うために来られたイエスから、「今日も良く生きたね」とあなたに向けられていることを知って欲しいと願ってやまない。

褒められて嬉しいのは子どもだけじゃない。むしろ多くの責任を担いつつ精一杯の毎日を送っている大人こそ、「褒めてもらいたい」と心の奥底で呟いているのでは?

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