触れる|「触れる」を取り戻せ
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今年の春先頃から、右手をついて床から立ち上がろうとすると手首に痛みを感じ、力が入らない症状が続いている。捻挫した記憶はないし、重い荷物を持って痛めたような記憶もない。普段は気にならないのだが、手首を直角に曲げた時だけ感じる痛みである。「骨に異変が起きているのではないか」と考えなくもないが、痛みが酷くなることもないし、他の部位に痛みが広がることもない。ということで、「老化だから仕方ないと考えた方が理に適っている」と勝手に自分を納得させて数か月・・・ついに原因を発見した。
保育園の礼拝が終わると、子どもたち一人ひとりと「タッチ」してお別れする。3・4・5才児70人前後の子どもたち、触れ方も様々で、優しく触れてくる子もいれば、思いっきり力を入れて触れてくる子もいる。保育士は「牧師先生の手が痛くなるから、もっと優しくしてあげなさい」といつも言ってくれる。だが、コロナ感染症に見舞われた当初、「3密を避ける」という言葉に心が支配されてしまっていたことを思うと、少々乱暴に触れてくることなど何ともないと思ってしまう私は、保育士の言葉に「大丈夫だよ」と応えつつ、むしろ喜びをもって子どもたちの手を受け止めてきた。何よりも「大人だから、子どもの力一杯のタッチくらい、平気な顔で受け止めてあげなければ」という気持ちがあったのも確かだ。しかし4・5才児の力は思っているより強い。だから、しなやかに受け止めてあげることが肝要なのだが、うっかり手のひらだけで受け止めてしまうと手首に負担がかかる。先日の礼拝後に力一杯の「タッチ」を身構えもせずに受けて、「あっ、これが原因か」と見つけてしまったのだ。とはいえこれからも、いつものように「タッチ」でお別れの所作を止めるつもりはない。触れ合うことが、コロナ禍をひとまず乗り越えられたことの象徴だと思えるからである。
「触覚」は「痛覚」よりも優先的に働く、つまり脳には触刺激の信号が優先されて伝えられ、痛み刺激の信号が邪魔をされ痛みが紛れる。だから「痛いの痛いの飛んでいけ」というのは効果があるのだという。(金城学院大学HPより)イエスは、病いの人に触れ、告げる言葉は困窮する人々の心に触れた方であった、神が創られた人間の脳の仕組みをご存知であったかのように。
手首の痛みも、子どもたちとの「タッチ」をしなやかに受け止めてあげ続ければ、きっと癒されるに違いないと信じて、残すところ9か月の保育園での礼拝を楽しみにしていきたい。