不思議な窓枠|恵みは何処にある

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二月半ば、「春一番」となった強風が深夜まで吹き荒れた。「窓が飛ばされなければいいけどなぁ」、心配しつつ眠りについた。

10年以上前、台風接近に伴う強風に見舞われた時があった。通過後、会堂に被害がないかと点検に入った。一見して被害はないように見えたが、どういう訳か南側のカーテンが風に揺れている。「もしかして窓ガラスでも割れたか」と近づき床にガラス片が無いのを確認。しかしカーテンをめくると風がもろに顔に当たる。開き窓(縦滑り出し窓)なので開いていればバタンバタンと音がするはずだが、音も無く、ただただ風が吹き込んでくるだけ。窓を見詰めること数秒。私は気が付いた、「窓が枠ごと無い!」慌てて窓を探すと、真下に枠ごと落下しているのを発見するも、3枚のガラスは無事。築50年以上の木造建築ゆえに支えの木材が弱くなり、強風で丁番が外れたのが原因のようだった。そして数年前、やはり強風の日、2階の小部屋の窓が隣家の壁と会堂との間に落下。破損・破砕も覚悟したが、ガラス一枚も割れずに済んだ。馴染の工務店に修理を頼むと、「足場を掛けることも出来ないので、羽目殺しにして良いですか?」とのこと。羽目殺しの窓一枚目。そして昨年のクリスマスの朝、別の2階窓が強風で落下。この時は隣家の庭に落ち、ガラスは割れたものの窓枠は無事。これも羽目殺し窓に、2枚目。そして前述の日、私の心配が的中。1階集会室の窓が道路際まで吹き飛び、ガラスは破損したが、窓枠はヒビが入った程度、原型は留めたままで生還。こうして三枚目の羽目殺しの窓となった。それにしても不思議なのだ、古い木材の窓枠なのに、原型を留め続けているということが。これぞ「神の恵み」とつい短絡に思ってしまいそうだが、恵みは原型を留めたという結果にあるのではない。たとえどのような姿になろうとも、神が必要となさるなら「相応しい道」が与えられるということこそが「恵み」なのではなかろうか。

パウロに対して主はこう言われた、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ。」(2コリント12:5)恵みとは神の働きであって、結果は様々な姿をとる。時には意に沿わないこともあるだろう。それでも神が働いてくださるという恵みは、パウロに「わたしは弱い時にこそ強い」(同12:10)と語る力をくれたのである。結果に左右されず「神の恵み:神の力」に感謝したいものだ。

この先いくつの窓が「開かずの窓」になるかと不安ではあるが、その都度相応しい対応がなされていくことだろう、何せ「不思議な窓枠」なのだから。

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