ゴミになってしまったけれど|日常は宝物で溢れている
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2月に車検を迎えるのを機に、車を買い替えようと決意。エンジンは故障無く動いてくれているが、多少オイル漏れもある。車体は傷だらけ(自己責任のものもあるが、駐車中に当て逃げされた傷も!)だし、何よりあと半年で高齢者に突入するのだから、今のワゴンタイプよりも小さめの車の方が楽だろうというのが理由。行きつけのガソリンスタンドでその話をしたら、「ウチでも中古車を扱ってますが、見てみますか?」と。トントン拍子で話が進み、ついに買い替え成立。愛車と最後の日、改めて車検証をみていたら、中古で購入してから18年も経過していた。「理事長を務めていた法人の4か所の施設の建築全てをこの車で走り回り、何とかやり終えたんだったなぁ」と懐かしんでいたら、手放せば「廃車=ゴミ」になってしまうのかと少し胸が痛んだ。今更だけどと最後に掃除し、記念写真を撮り、私に沢山の「思い出=宝物」をくれて「ありがとう」と愛車とお別れした。
家具・家電に混じってぬいぐるみや装飾品等が「ゴミ集積場」に集められていく。災害の度にそんな映像が映し出される。災害によって壊れてしまったとはいえ、人によっては「ゴミになったから捨てる」というよりも、「壊れてしまって新しい生活に持っていけないから、これでお別れ。沢山の思い出をありがとう、さようなら」、そんな気持ちを込めつつ、置いていくのではなかろうか。そして集積場には運べないが、災害によって壊れ愛車を廃車にしなければならない人々も、多分私と同じような気持ちで「別れ」を告げられたことだろう。ゴミとひとくくりにして報道されてしまうけれども、その一つひとつは、接した人々に素敵な宝物を与えてくれた、大切な「ゴミ」なのである。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:28~30)枯れればゴミとして捨てられる野の花から学べと主は言われる、神が養い装ってくださることを。ゴミとして捨てられるあなたの大切な品々ですら沢山の宝を与えてくれたではないか。だから、「あなたの日常は沢山の宝物で溢れている、それに気付け!」と神は告げておられるのだ。
廃車となった愛車はT社の「ノア」。年末に14才の飼い犬「ノア」が息を引き取った。二つの「ノア」が同時にいなくなったけど、思い出はいつまでも胸にあるからね。