驚きに驚く|クリスマス、驚きの祝福

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いきなり天使が私のところにやって来たらどうするだろう。恐れと驚きに心臓が波打ち、腰を抜かしたまま動けなくなってしまうのではないか。クリスマスの降誕劇はマリアのもとに天使ガブリエルが遣わされたことから始まる。ルカによる福音書1章28~30節によると、「天使が祝福の言葉を告げると、マリアは戸惑い考え込んだ。すると天使は『恐れることはない』と告げた」とある。天使が「恐れるな」と言ったのは、マリアの表情態度に、まさに私が想像するような様子を見て取ったからであろう。降誕劇の準備をしている保育園年長児たちの礼拝で、そんな「マリアの驚き」について話をした。数日後、教会でのリハーサルに付き合った際、マリア役の子は天使が登場すると、跪(ひざまず)き両手を開いて頬の横に沿(そ)え、驚いた表情を加えて天使を見詰めた。直ぐに私は理解した、「この前の礼拝の時の話を取り入れてくれたんだ」と。帰園する際も保育士が、「驚きの演技を入れたのは初めてですね」と私に声を掛けてくれた。

「告知・ベツレヘムの宿屋・野原の羊飼い・博士たちの来訪・飼い葉桶のイエスを拝礼」という降誕劇は、マタイによる福音書とルカによる福音書から構成されている。毎年演じられるのを観ている内に、ごく普通のことの様に受け止めてしまっている私たちがいるが、冷静に考えれば、どの場面も不思議な出来事なのだ。いやどの場面も驚くことの連続なのである。前述のマリアが驚いたように、婚約者から身ごもったことを聞かされたヨセフも、突然栄光に包まれ天の大軍の賛美を聞いた羊飼いたちも、星が導いてくれることを経験した東方の学者たちも、そして降誕劇には滅多に登場しないが、いきなり新しい王が生まれると聞かされたヘロデ王も、全てにおいて「驚き」があることに気付かされる。それは「神が働くところに驚きが生まれる」ことを示唆しており、理由は何も知らされない。勿論人間的に解釈し理由付けすることは可能ではあるが、それはあくまでも人間の側の勝手な理解に過ぎず、キリストの誕生を世俗化してしまう恐れすらあるのだ。「驚き」は神が介入された出来事だから生まれるのであり、「驚き」は「驚き」のままで受け入れるところに、クリスマスの本当の喜びが横たわっている。「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と受け入れたマリアは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)と言ってもらえたではないか。

「驚き」はクリスマスに限らない。翻って自分を見詰めれば、「沢山の驚きが溢れているではないか」と、この地で24回目のクリスマスを迎えつつ思うのである。