記憶に残して欲しいため|指揮者と重ねて

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思い出せないくらい久しぶりに、オーケストラのコンサートに出掛けた。音響の良い会場で「生の音楽」に触れるのは格別だが、私に判るのはそこまで。そんな私だから、以前出掛けた時も、知らない曲になると何処に視線を注いで良いかもわからず、周囲の観客の拍手に目覚めて遅ればせの拍手。そういう有様なので、どうしようかと迷ったけれど、教会員のお二人が所属する楽団でもあるので、今回は視線も注げるからと出掛けてきた。プロではないと伺ってはいたが、ド素人の私には区別がつかない程の演奏。ゲストのヴァイオリ二ストの音色も繊細で素晴らしく、演奏も進んでそろそろ瞼が…と思い始めた頃に、指揮者の動きに目が釘付けになった。体を左右に動かせつつ観客にもはっきりわかる大きな腕の振りは、演奏者たちに強弱や各パートへの的確な指示(指揮)として伝わっているのだろう。指揮者の感性と演奏者たちの奏でる音が一体となって客席に向かってくるようで、お陰で最後まで眠気に襲われることもなかった。「目で見て、耳で聞き、肌で感じることができるからこそ、コンサートは魅力的なのだ」と、演奏の途中で眠くなってしまうド素人の私が初めて感じさせてもらい、お誘いいただいたお二人に感想しつつ会場を後にした。

画像:Manuel NägeliUnsplash)  

指揮者の立ち位置は、礼拝を司る司式者(牧師)の立ち位置と重なる部分が多いかもしれない。ことに私たちルター派の教会では式文を用いているために、司式者の振る舞いひとつで礼拝の雰囲気に影響を及ぼす。だから私自身が気を付けていることは、先ず第一に礼拝を止めないこと。第二に所作は役者が演ずるようにスマートに行うこと。簡単に思える様な事ではあるが、不測の出来事も起こるし、時には式順そのものを間違えてしまうこともある。それでも何事もなかったかのように粛々と執り行い続けることが大事だと心している。礼拝の中心はあくまでも招いてくださる神と賛美する会衆であり、遠くから足を運んでくださる皆さんが、「牧師が間違えてうろたえた」という記憶が残ってしまうこと程、残念なことはないと思うからである。そういう思いは指揮者も同じではないかと想像する。演奏家たちと一体になって素晴らしい音楽が観衆の記憶に留まるようにと、全身を使ってタクトを振っておられるのだろうなぁ。

記憶に残して欲しいのは福音、たとえ私が何かを忘れていても、どうぞ気に留めずに礼拝に集中してください(と、予め弁解しておこう)。