祝福を贈る|神様からの贈り物はあなたにも

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「礼拝開始時刻に間に合わなくても、あるいはもっと遅くなって説教の時間に間に合わなくても、最後の祝福に間に合うようだったら礼拝にいらっしゃい」と私は常々言っている。最後だけ行くのは照れ臭いと思うかもしれないが、最後の祝福こそが最も大きな恵みだからだ。たとえ私が一週間の全ての時間を費やして準備した説教であっても、最後の祝福より豊かな恵みを与えることはできない。何故なら、どんなに準備された説教であっても、人間的な要素が加わることから避けることはできず、逆に祝福の言葉は介するのが人間ということ以外は全て神様が付与してくださる贈り物にほかならないからだ。

召されて父祖となったアブラハムは「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:2)という祝福の言葉を携えて、神が約束してくださった見知らぬ土地に向かった。ヤコブは本来兄のエサウに与えられる筈だった祝福を、狡猾(こっけい)とも言われかねない手段で奪い取り(創世記27章)、12人の息子たち(後の12部族)をおのおのふさわしい祝福をもって祝福した(創世記49章)。そしてイスラエルの民は祭司に任職されたアロン(モーセの兄)が告げる祝福によって、神の民としてのアイデンティティ(同一性・主体性等)を保ち続けたのである。

「卒園式で子どもたちを祝福し見送る」、毎年二つの保育園で心がけてきたことであった。だが今年、松戸市のK保育園ではインフルエンザが流行し、私の出席も叶わなかった。そこで卒園後も登園する彼らとの礼拝の折に、一人ひとりを祝福してあげたいと相談した、子どもたちと接することが可能かという意味も含めて。園からは「インフルエンザも落ち着いているし、コロナ感染症対策も緩和されているので接触するのも大丈夫」という返事をいただき祝福することにした。当日、姿勢を正し神妙な顔で目を閉じて待つ子どもたち一人ひとりに、3年間の苦労を労い、神様のお守りを祈りつつストラを掛けて祝福してあげることができ、いつの日かその瞬間を思い出し、「大丈夫」と前を向ける日が来ることを祈りつつ園を後にした。

あらゆる礼拝の最後に告げられる祝福(神様からの贈り物)を、これを読んでくださった「あなた」にも贈ります。無条件の祝福を頂いて、豊かな歩みを続けてください。

「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜ります。(ルーテル教会式文:民数記6:24~26より)