マスクが律法に|まずは心のマスクを外してみよう
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安息日に病人を癒(いや)したり、弟子たちが麦の穂を摘んで食べても咎(とが)めないイエスは、律法学者たちにとっては苦々しい存在であった。病人を癒すことは医療行為であり、麦の穂を摘むことは労働にあたり、律法に安息日に行ってはならない行為として挙げられていたからである。しかしイエスご自身は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と語っておられることから、意識的に律法破りをなされたとは思われない。律法は神を愛し敬う時に、そして神の恵みに感謝を覚える時に生まれる人間の行為である。律法を守らなければ神に愛されることも恵みをいただくことも、ましてや救われることもないということではない。だからこそ、イエスは律法が本来目指していたことを人々に示そうとされていたのである。しかし、当時律法の下に生きていた人々にとっては、律法を守らなければ社会の中では生きづらくなるし、更には罪人として断罪される恐れすらあったのだから、もはや律法を意識しない生き方こそあり得ない状態だったことだろう。そのような律法主義の下に生きる人々を批判こそすれ、私には彼らの「息苦しさ」を理解できなかったのも事実であった。
明日から「マスクの着用に関して、屋内・屋外を問わず個人の判断」に変更される。3年間のマスク生活がいよいよ終わるのだろうか。余りにも深く刻まれている「マスク着用」という生き方からは、そう簡単には逃れられないのではないだろうか。何せマスク無しでは外出もままならなかったし、人と会う事すらしなかった。更にはマスクを着用しない人を断罪し、マスクに私たちの安全安心を全て委ねてしまってきた。マスクが不要というつもりは毛頭ないが、もはや「マスク着用」が私たちの日常となり、新しい「律法」の地位を獲得してしまっているのではなかろうか。勿論教会もその「新たな律法」の支配下にあったことは否めない。イエスの時代の人々は、まさに「心にマスク着用」の状態であったのであり、彼らの息苦しさを私たちは「口にマスク着用」で経験させられているのかもしれない。
かつての律法は、イエスが十字架についてくださることによって本来の「神の愛の発露としての律法」の地位を取り戻した。今、個人の判断といわれている「マスクという新しい律法」から、私たちはどのようにしたら解放されるのだろうか。コロナ感染症が終息していない状況での答えは今の私にはないが、少なくとも「接する人のマスクに目を止めることは避ける」日々を送りたい。先ずはマスクを外して花見に行くかな!