労(ねぎら)う|「大変だったね」と思いやることから

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彼らだけではなく、限られた学校生活の殆どを強いられてきた全ての子どもたちに、「コロナだから仕方ないね」と声を掛け続けてきたのが大人の私たち。それは子どもたちのためにというよりも、私たち自身が納得するための声がけではなかっただろうか。

ミャンマーで国軍がクーデターを起こしてから2年。国際社会の声も聞き入れられず、1年後のウクライナへのロシア軍侵攻によって、人々の苦悩の声も届けられなくなりつつある。私たちが聞こうと聞くまいと情勢は悪化を続けている。どんな支援を行い、どんな言葉をかけて来ただろか。そのウクライナ侵攻も1年経つ。胸が締め付けられるような思いで戦況を見詰め、今出来る支援を行ってきたつもりではあるが、本当に必要な支援や言葉を掛けてあげられたのだろうか。


「依存症の担当医になりたての頃、アルコールや薬物の依存症患者にはそれをやめさせようと厳しく対応していた。虐待、性被害、自傷などの過酷な生い立ちにまで当時は想像が及ばなかったと、医師・成瀬暢也は言う。『私……薬物がなかったらとっくに死んでいたと思う』(ある薬物依存症の患者)この一言にふれた後、『大変でしたね。でもよくこれまで生きてこられましたね』と患者をまずは労(ねぎら)うようになったと。(週刊医学界新聞2月6日号から。)」(朝日新聞2月14日「折々のことば」より。)相手の気持ちへの思いがなければ労いの気持ちは生まれない。だから、人と本気で向き合おうとするなら、褒めたり励ましたりよりも労いから始めたら良い、と言われているようでもある。

「褒めて育てる」と子育て中の私は常に自戒してきたつもりだったが、先に厳しい言葉で対することも多かった。「あなたのためだよ」と言いながら、親の気持ちの押し付けだった。もし先ず子どもの気持ちへの思いがあったら、労う事から始められたのではと反省する。子育ては、「労って育てる」の方が温かい。

大声を出せず、密になれず、マスクで息苦しい学生生活を過ごしてきた子どもたちに、「大変だったね」と労いの言葉をかけてあげたい。何よりも関わっている二つの保育園ももう直ぐ卒園式。今年の卒園礼拝のお話は、子どもたちや保護者に「大変でしたね、ご苦労様でした」という労いの言葉から始めるとしよう。

それにしても2月に大きな出来事の始まりが続いている。「相手への労い」を思い出せと言われているのかもしれない。