一日の始まり|暗闇から始まる一日
(99)
「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1:5)天地創造の第一日目の終わりの箇所である。神は創造の働きを六日間なさったが、その終わりには必ず、「夕べがあり、朝があった。」と記されている。「一日は日没に始まり、日没に終わる」というユダヤ教の一日の捉え方がある。テレビなどでは午前零時を過ぎると、「日付が変わって・・・」などという放送を聞きなれている私たちには、「日没から一日が始まる」という感覚は、あまり持ち合わせていない、日が沈むと「あぁ、今日も一日が終わる」という生活慣習に浸りきっているからだ。しかし、クリスマスは違う。多くの教会では24日の夕方に礼拝を行う、クリスマス・イブとして。日付が24日であり、イブ(Eve)には「前夜」という意味もあるために、つい「クリスマスの前夜」と受け止めてしまう。(実は私も随分「前夜」と思い込み何の疑いも持たなかった時期が長くあった。)しかしイブとは「evening(夕)」の略であり、クリスマスの夕方(夜)の礼拝に他ならない。だから、24日にイブ礼拝を行い、25日は愛する家族や人と過ごすということも理にかなっているという訳だ。だからクリスマスだけは私たちも、聖書が告げる「一日」を過ごしているということになる。
キリストがお生まれになる約800年前、イザヤという預言者がいた。彼が生きていた時代のイスラエルは、国が破壊され、異教の神の礼拝が行われるという悲惨な状況であった。暗闇が国を、人々の心を覆っていたのである。彼の心も打ちひしがれていたことだろう。その彼を神は召されたが、彼が聞かされたのはイスラエルへの神の失望と更なる荒廃であった、「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで」(イザヤ6:11)と。だが神は最後に「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」(同6:13)と微かな希望を告げ、そして「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み その名はインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる」(イザヤ7:14)との言葉を託された。暗闇の中で神に出会い信頼し委ねるなら、確かに夜明けは来るのだと告げているかのようであり、そこに日没から一日が始まる生き方が示されているのである。ただし、イザヤ自身はこの預言の実現を見ないままに生涯を終えたことは言うまでもないが。
せめてクリスマスの時くらい、「一日は日没から始まる」と心してみよう。そうすれば夜明けの目覚めも違ってくるのではなかろうか。