いつもと違って|聖書からwithコロナの道を見出す
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「いつもと違って、今年はクラス毎の運動会になりました」と保育園4才児クラス運動会の礼拝で話し始めた2年前。対処法としてはマスク着用・うがい・密を避けるくらいしか出来ない状況の中で、「子どもたちのために何としても運動会を行ってあげたい」と保育士たちが苦心の末に出した方法が、クラス毎の運動会であった。その苦労をチャプレンとして理解しているからこそ、私は「いつもと違って・・・」と話を切り出したのだ。しかし、次の3才児が始まる前に私はずっと自問自答していた、「来年も、もしかしたら再来年も『いつもと違って』と話し始める気か!」と。「感染収束までは少なくとも2~3年はかかると専門家も言っているからといって、ひたすらその日を待ち『いつもの日常が戻ること』だけを目指す生き方で良いのだろうか」と。「いつもと違って」と切り出した背景には、コロナ感染症以前の日常を、無意識の内に肯定している自分がいる。同じことを繰り返すことは確かに安全かもしれないが、それが本当に良いことなのか。まして子どもたちに「いつもと違う」と話したところで、「いつも」とはどういうことかを、マスク着用の日々の中で理解することは困難であろう。「私たちが変わらなければならない。いつまでも『いつもと違う』という所に留まりつづけてはいけない」、そう思った私は、その日以来「いつもと違う」という言葉も概念も捨てようと強く思った。
「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(申命記5:12〜14)神が天地を創られ、7日目に安息されたことから、これは最も重要な律法であった。ところがイエスは安息日に手の萎えた人を癒された。医療行為、すなわち「仕事をした」として、ファリサイ派の人々は「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(マタイ12:14)。イエスの活動や言動は、安息日には仕事をしないという「いつもの正しい信仰者の日常」を破壊するものに映ったのだ。
否応なく「いつもと違う」世界に放り込まれた私たち。しかし聖書を紐解けば、そこに何を大切にし、何を為すべきかの道を見出すことが出来る、先人たちがこのような試練に会った時に聖書に立ち返って道を見出していったように。安息日のイエスの出来事を通して、改めて「いつもと同じは本当に良いことなのか」と、終息の時は見えていないけれども、新しい「いつも」を目指して、歩みを進めていきたい。
今年も間もなく保育園の運動会が行われる。コロナ感染症が存在し続ける日常の中で、今年はどんな言葉で話を始めるかなぁ。