見つけてもらうために|エリザベス女王の葬儀から
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会堂前の道路際に咲いた花々が、道行く人々の心を慰めてくれている(と思う)。教会学校の子どもたちが蒔いた種で、当初は「教会学校の子どもたちが蒔きました」と書かれた小さなプレートがあったのだが、成長した今はプレートも隠れてしまい、ただただ咲いているだけである。でも経緯を知る方には、花の美しさと同時に楽しそうな子どもたちの姿も映っているのだろうし、併せて「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」(マタイ6:28〜30)という聖句も浮かんでくるかもしれない。花壇の花だから、野の花とは違うけれども、何処にどんな経緯であろうとも、花の愛らしさ可愛さは変わらない。神が装ってくださったのであり、同時に花を通して神の恵みを見つけてもらうようにしてくださっているのだ。
話しは変わるが、英国のエリザベス女王が逝去され、葬儀の模様がニュースで伝えられている。女王のエピソードの一つに、女王は公務で外出の際は常にカラフルな服をお召しになっておられたという。目立つ服だと危険なのではと一瞬思った私だったが、「それは大勢の人の中で自分を見つけてもらうため」と説明があった。危険があること以上に、親近感を増すことを自分の役割と肝に銘じておられたのかもしれない。だからこそ大勢の人々に囲まれていても自分を容易に見つけてもらえるようにという心遣いが、ご逝去に際して英国民の多くの心を打っているのではなかろうか。そういえば、棺を移動させる際の車もガラス張りで、何処からでも見られるようになっていたのも女王の最後の遺志であったのかもしれない。
「私は歩く広告塔だから」とおっしゃったのは、私が最初に赴任した地で共に働いてくださった米国人のW宣教師。大型スーパーではなく近所の小さな商店街で買い物をするのも「広告塔」を自覚しておられたからだった。「外人だから歩くだけで見つけてくれる」とおっしゃったW先生と同様にできない私は、仕事で出かける際は出来るだけ牧師服(カラーの付いたシャツ)を着るようにしている、見つけられるために。(でも見つけられたとしても、特別なことはできないのだが・・・。)教会・牧師を身近な存在と感じて欲しいと願うからでもある。
花々に限らず、神様は日常の中で恵みを見つけられるために沢山の事を用意してくださっていることだろう。ただし、それを見つけられるかどうかは私の信仰次第だが。