花が無くても

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「花が無い」と、保育園の園児礼拝の直前に、玄関付近を眺めながら園長先生が私に呟いた。礼拝に使用するテーブルに飾る花が、その日に限って準備できていなかったからだ。ギリギリになって年長組の保育士が小さな花瓶に花を挿して持ってきてくれて、いつもの雰囲気になり礼拝開始。一生懸命に礼拝を整えようとしてくださる園長先生と届けてくれた保育士に心の中で感謝しつつ、テーブルに飾られた花を見ながら、「花は無くても礼拝は成立しますヨ」と心の中で呟いた。

翌々日、もう一つチャプレンを務めている保育園の主任から電話。「来週、礼拝に来ていただくのですが、三才児のクラスは讃美歌を余り覚えていないのです。感染症も少し落ち着いてきはじめているので、礼拝をクラス毎で再開したいのですが、どうしたら良いでしょうか?」と。この保育園は月に二回礼拝に行くのが常だったが、コロナ禍が始まってから、ほとんど礼拝を行えなかった。再開してもすぐに大きな波が襲い中止の繰り返しであったが、「礼拝をお休みさせてください」という連絡が来る度に、「工夫したら礼拝はできるのだけど・・・」と残念に思う日々であった。しかし、今回の電話で「すぐに中止」を決断された理由が分かった気がした、「いつものように大きな声で讃美歌を歌うと感染の恐れがある」、つまり、いつもの様にできないから「中止しなければならない」という判断であったのだということを。私が「礼拝は福音が語られ、神様の祝福をいただければ成立するのです。だから三才児は讃美歌の心配をしなくて良いですよ」と伝えると、「そうなんですか!」と嬉しそうに電話の向こうの声が弾んでいた。「二年半、もっと丁寧に説明してあげていたら、主任も悩まなくて済んだのでは」と、かえって申し訳なく思った次第。

礼拝に欠かすことが出来ないのは「福音(説教)と祝福」。日本語では「私たちが神を拝する」というニュアンスがあるが、英語では「サービス(service)」という。誰が誰にサービスするのかというと、「神が私たちに御言葉と祝福をもってサービスしてくださる時」と理解できるのだ。讃美歌を歌わなくても、会堂の中にお花が無くても、神様がサービスしてくださる、しかも「出血(十字架の贖い)大サービス」してくださるのだからと受け止められたら、「園児礼拝中止」も無かったのではなかろうか。

私たちは、この二年半で何が大切な事かを見直し確認したのだと思えるなら、決して無為に過ごした訳ではないと次の世代に胸を張って伝えられる筈だ!