平和の鐘
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「先生、今年も平和の鐘は鳴らさないのですか?」とある方に尋ねられた。市川ユネスコ協会が毎年8月15日に平和を祈って鐘を突く活動を続けてこられ、私たちの教会も2016年から共催し参加していたが、コロナ禍となり、2年間中止された。その間、私自身自問していたことがあった、「ユネスコの行事に共催して鐘を突いていたのか?それとも自らの意志で鐘を突いてきたのではなかったのか?」と。今年も中止の案内がきたものの、どうしようかと思いあぐねていた矢先のお尋ねであったので、私は躊躇なく、「いえ、今年は行います、ユネスコの行事は中止ですけど。」と返事をした。感染予防に務めることは大切だが、平和を祈る思いまで中止してはならず、特に今年は「平和」への願いを強くし呼び掛けることが大切だと思えてならなかったからだ。
我が教会の鐘は、米国のどこかの教会の使用済の鐘を、会堂建築の折に寄贈していただいたと聞く。鐘の中の分銅を揺らして鳴らすのではなく、鐘そのものを傾け、中の分銅に当てて音を鳴らすので、かなりの力が必要となる。また重たい鐘を揺らすことで建物に負荷がかかって痛みが大きいのではないかと少々心配するが、構造上仕方ない。その心配を忘れて鐘の音を聞いていると、まさに「天からの声」のように聞こえてきて心地よい。会堂の外で聞いたことはないので、何処まで届いているのかは分からないが、鳴らすのは礼拝の前後のみであって、時を告げるという役割は我が教会の鐘にはない。
ところで、「教会には鐘がある」というイメージがあるが、聖書には「鐘」そのものは登場しない。口語訳聖書の1コリント13章1節に「もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである」という文章があったが、新共同訳及び聖書協会共同訳では「愛がなければ、わたしは騒がしいどら(・・)、やかましいシンバル」という訳になっている。楽器として鈴・シンバル・ラッパは登場しても、鐘が用いられることはなかったと考えられる。ではいつ頃から「教会=鐘」という繋がりができたのだろうか。
「『聖書』には様々な楽器に関する記述があり、これらの楽器を総括する役割を果たすものとして、修道院などで鐘が用いられるようになりました。300年頃、エジプトの聖大アントニオス(251−356)が、修道院を建設し、この際、修道士を祭儀に呼び出すために鐘(もしくは鈴)が使用され、これが教会の鐘のはじまりであるとされます。」(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会HPより)つまり、我が教会の鐘同様、「今から礼拝が始まるよ~」と鐘は人々に呼び掛けるために備えられたということである。
教会の鐘の音が、礼拝の開始と共に平和を祈る音として人々に届くことを願いたい。