変わらないもの

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
今年はいつもより暑くなるのが早いね」とか「いつもより暑すぎる日が多いね」と私たちは自分が生きてきた記憶の中でいろいろなことを比べたり評価したりします。
そのときは誰が基準になっているのでしょうか?
自分の知っている価値観や自分の知っている常識。すべての中心は自分だと思うとき、自分は限りがある存在であることを忘れているのかもしれません。
そんなちっぽけでくだらない存在であっても、大きくて重要に思える存在にも感じられる私でも、神様に命を与えられて大切にされていることを感謝することができますように。

これから語られますみことばこの語る者を通してここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します
ーメン。

【参照聖書箇所 マルコによる福音書14章22〜26節】
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(26節)

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「最後の晩餐(ばんさん)」と題されていて有名な画家の絵の題材にされたりした箇所でもあります。聖書に書かれている通り、イエス様がいよいよ十字架に掛けられようと捕らえられる前に行った弟子たちとの最後の夕食の場面です。これは今も教会で行われている聖餐式の初まりでもあります。

よく、こんな思いをされた方のお話を聞きます。「なんか聖餐式のある礼拝だと急に洗礼を受けたか受けてないかが聞かれているようでいやなのよね。神様のことを聞きに来てるだけなのに、なんか差別されてるみたいでいやなのよね」というような言葉です。すごく納得できるし私も何でだろう?ってずーっと思っていました。

ある時「昔、キリシタン迫害の頃は聖餐を受けることは命がけだったんだよ」という話を聞きました。イエス様からの愛はすべての一人ひとりに分け隔てなく与えられています。それは変わることはありません。しかし、それを受け取る私たちは信仰を公に告白してきた責任があります。現在は、キリスト教が迫害されていない日本で配餐を受けられないほうが差別されているように感じる方もおられます。しかし、教会へ来ることだけでも命がけだった時代が日本にもあったからなのかもしれません。

受け取る私たちは時代の流れや社会の考え方で変わることがあっても、神様から差し出される愛は決して変わることはありません。決して変わることがない神様からの愛を受けて生かされていきましょう。

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