信ずればこそ

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「手を洗って!」「お片付けできた?」と子どもが幼い時に繰り返し語り掛けてきた、「子育ては忍耐」と自分に言い聞かせながら。「は~い」と素直に応えていた子どもも、繰り返し言われ続けることで「後で」だの、「もう済んだから!」等と言い始める。所謂、最初の反抗期という訳だ。中学生くらいになると「勉強しなさい!」「いつまでゲームやってるの!」と心配しながら言う親に「うるさいなぁ」と口答えするのはまだ良い方で、殆ど無視するかのように黙って親の前を通り過ぎる。第二の反抗期である。忍耐を越して、ある意味「戦い」である。戦いが勃発するのは、親の気持ちを、しかも良かれと思う気持ちを子どもにぶつけ、言われた子どもにすれば「そんなこと、言われなくても分かっているよ!」となる時である。子どもの気持ちを更に考えると、「そんなに私のことが信じられないの?」ということになるのかもしれない。だとすれば、「反抗期」という命名は、親(大人)の側の一方的な決めつけで、むしろ自意識が芽生え育つ「成長期」であると言える。う~~ん、そう思えば、親の忍耐力も増すかもしれないが、瞬時にそう思うことは難しく、親であってもつい感情に流されてしまい、「反抗してばかり」となるのも致し方ない。子どもを信じて、時には黙ってみていてあげることも必要なのかも。

最近、躊躇する言葉がある、「予防」という言葉である。1年半以上、「予防・予防」と繰り返し語られ語り続けてきた。自分のためであると同時に隣人のためであるからこそ、自分に向けて、あるいは周囲に向けて繰り返し「予防」と語ることは大切であった。しかしもう1年半、未だに「予防」と言われ続けることに、どこか不満を覚えてしまう。語る自分も嫌だし、きっと言われる人も嫌なのではないかと思う。ニュースでは一部の人々の不用心な行動が報道されたりするものの、大半の人々は(私の周りの全ての人々は)、十分すぎるくらい「予防」の日々を過ごしている。「言われなくても予防してます!」と言いたい気持ちになっても不思議ではない。

「安心しなさい」と弟子たちにイエスは言われる。この言葉は福音書には多くは記されていないが、その働きや教えを通して人々に伝えたい神の思いだったのではなかろうか。裏切られても捨てられても私たちを信じて待ち続けてくださる神を知る時に、言われなくても福音に身を委ねて生きる道を歩めるのではなかろうか。

「お元気で!」の一言が、むしろこれからの日々の言葉がけに相応しいのではないかと思うこの頃である。