だれも同じに生きている

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第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

あなたがたは地の塩である。……あなたがたは世の光である。(マタイによる福音書5章13、14節)

【解 釈】
これも有名な山上の説教の一節である。光は、聖書のなかでは神の栄光のしるしであり、また光であるキリストを示す。当時、光を得るために動物の脂を使用して、小さな土器で灯心を燃やした。塩は貴重であったが、土地柄、豊富な岩塩が用いられたにちがいない。多くは食物の保存によく使用された。ガリラヤ湖で取れる魚を塩漬けなどにしたようである。いずれにしても生活上なくてはならぬものなのである。人間もまた、塩や光のように役に立つものとならねばならない。

しかし不思議にもイエスは、ここではたんに地の塩であれ、世の光であれと命令してはいないことに注目したい。むしろ地の塩、世の光「である」という言葉で結ばれている。行為ではなく、すでに存在していること、それ自体のあり方に注目して、存在そのものがすでに塩や光として「ある」ことを意味している。あらためて自分の存在の価値に目覚めさせられる言葉と言えよう。

【こころ】
かつて重度心身障害者を交えてのキャンプをしたことがありました。ある夜、その日のふりかえりの時、ひとりの大学生がこう言いました。
「この人たちのために僕たち健康な者が役に立つことをしてあげなければ」
彼はなにか自分にできることはないかと善意でいっぱいになっていたのです。そのと き、ひとりの障害をもつ青年がとつとつと言いました。
「それはちがう。君も僕も神さまから愛されている。だから同じだ」
大学生は、そのとき頭をガーンと殴られたような気がしたそうです。

なにか自分にできることはないかと探し回ることはけっして悪いことではありません。けれども人間の存在の価値の尊さを知ることはもっと大切です。この大学生は、善意を与える者と受ける者の間に差別があってはならないことを教えられたのです。ボランティア活動をしている者だけが地の塩、世の光ではありません。もしそう考えるなら、世のなかでなにか役に立つことをしないと、地の塩、世の光ではあり得ないことになります。

塩や光はそれ自体、存在することで十分役立っています。塩はそこにあるだけで物の腐敗を防止し、光はかならず燭台の上に置かれます。それこそ存在そのものに意味があることを示しています。しかも塩や光は少量で十分であるように、存在は小さくてよいのです。大きい存在である必要はありません。大きく生きようが、小さく生きようが、人はすべて地の塩、世の光としての存在を生きています。行為で評価を定めるこの社会にあって、存在することの価値を教えるこのイエスの言葉は、貴重な一石を投じているのではないでしょうか。

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