なぜこの人が私の相手なのか

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

 

人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」 創世記2章23節

 

【解釈】
創世記に見る男と女の創造物語は、男女の出会いの神秘性を不思議な素朴さで綴る。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(ヘブル語でイシャー)と呼ぼう、まさに、男(ヘブル語でイシュ)から取られたものだから。』」(創世記2・21〜23)とある。

男が眠っている間に女が造られたとは、男と女の出会いのなかに、なぜ相手がその人なのか、どうして二人がそうなったのか分からないものがあるという意味である。また女は、男が眠っている間に男のあばら骨の一部をもって造られたとある。「骨」という言葉には「力」、「本質」という意味があり、「これこそ、わたしの骨の骨」とは、女と男は深い共通の質で繋がれているという意味である。また「わたしの肉の肉」という表現のなかにも、男と女が互いにひとつの体へと結ばれようとする強いきずなを感じさせる。ちがう存在でありつつ、同じ存在であろうとする男女の不可思議さを言っているのである。

 

【こころ】
男と女の関係は不思議なものです。なぜこの男と女が一生をともにするのか、その取り合わせはまことに妙と言わねばなりません。結婚式に招かれ、招待者の席から雛壇にいる花婿花嫁を見ていると、「なぜこのふたりなのか」と不思議に思えることがあります。おそらくは、結婚であれ、恋愛であれ、互いに寄り添う関係になるには、当人たちも、自分や相手の気持ちを確かめたり、周囲のことに気を配ったりして、その結果、この人と思い定めたにちがいないのです。しかしそれでも、数多くの男や女のなかから、なぜこの人が私の相手であるのか、いろいろ詮索したところで、決定的な理由は分からないのです。

それこそ聖書が言うように、眠つている間に相手が決められたのだと思うのがいちばん理に適っていると言えます。分かつているようで分からない男女の組み合わせは、そのような表現でしかうまく言い表せないのです。昔から、縁は異なもの味なものと言い、赤い糸で結ばれているなどとも言ってきたのも、同じような人の思いが込められています。それこそ男女の関係のなかの神秘性と言ってよいでしょう。

にもかかわらず、男女の結びつきはリアルです。「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」とは、男と女がひとつの体へと結び合おうとするひたむきな性の関係を表しています。男と女の関係は、神秘的でありつつ、なおリアルな性の関係を包むのです。だからこそ男と女の関係は、緊張をはらみ、わくわくします。あるときは肌のふれあいを持ちたいと願い、あるときは精神の世界に遊ぶのです。恋や愛のさなかにいる者が涙や感動を覚えるのは、この緊張関係のおかげなのです。

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