かけがえのない自分という存在

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

神は御自分にかたどって人を創造された。 創世記1章27節

【解釈】
聖書は、世界や人間をとらえて表現するすべての事象の背後に、意味や価値を表すメッセージをもっている 。

人間を理解するにあたっても聖書は 、人間とはなにかを問いたかったのである 。 明らかに人はどこか自然の動植物とちがう 。そのちがいはなにか 。 その素朴な疑間が 、人は神のかたちに似せて造られたという表現を取らせた 。神のかたちという表現についてはさまざまな解釈がある。動物に対する人間の支配を意味する、あるいは神の主権の代理のしるしであるとも言われる。さらに発展して、神に対する応答性だとか 、なんらかの神の一部分であるとか 、理性や自由意志のような 高い精神性を表すなどさまざまに意見が分かれる。

要は 、人間という存在は 、尊いのだということなのである 。おそらく古代人は 自らを取り巻く自然世界と一線を画した自己の存在に気づいたのであろう。人の存在が尊いというのは自明のことであつて、言われなくても分かっていると人は 言うかもしれない。

しかし人の存在が尊いと認識することは、言われてみてはじめてそうだとうな ずくことである。そういう意味からするとこの聖書の言葉は、あらためて自己や他者の存在の尊さに目を向けることを促す。

 

【こころ】
あるとき 、 ひとりの生物学者の研究室を訪ねたことがありました。その研究者がメダカの飼育槽を指さして、「見てください。みんな顔がちがうでしよう」と言うのです 。 それまで考えたこともありませんでした。メダカの顔はみんな同じだと思っ ていたからです。以後、わたしは、動物でも魚でもひとつひとつに個体差があることにあらためて気がつくようになりました。猫や犬は分かるけれど、まさか魚までと思われ る方は 、こんど魚の顔をよく見てください。不思議にどれもが個性をもつて生きていることに驚きの念をもつはずです。

人間の特権は 、個体がかけがえのないひとつの命を生きていると自覚できることです。 だからこそ、他の自然のかけがえのない存在に責任をもつのも人間なのです。人は神のかたちにかたどって造られたとは、自分というものの存在の意味を理解し、それに責任をもつことができるものとして造られたということにほかなりません。人はロボットではないのです。そのままの存在をなんの自覚もなしに生きることはありません。なぜ造られたのか、なんのために造られたのか、その意味を理解し得る存在として、この世に生きています。しかも、自分の世界だけを狭く見ているのではありません。造られたものすべてに目を凝らして、そこにある意味や価値を発見する力を与えられています。それこそが、神のかたちにかたどって造られたものの特権です。環境保全運動が盛んなのも、かけがえのない存在の意味や価値を知るからこそでしょう。

最近、鉄道での人身事故のニュースを聞くと心が痛みます。自分の存在のかけがえのなさに気づく力がほしいと思うのです。かけがえのない自己の存在の尊さに気づくことなく、むざむざ人生を果てる悔しさを感じてしまいます。本人を責めるというより、その力を教えることのできなかった悔しさを私自身に感じてしまうのです。私はときどきこんなことを言うことがあります。「自分を見てごらん。世界にたったひとりしかいないよ。そしてもうひとつ、人はだれであれ、明日はこの世にいないかもしれない」。その思いで自分を見ると、いままでとは一味ちがった自分の存在が見えてくるのではない。

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