人間のほんとうの価値とはなにか

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第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

空の鳥をよく見なさい。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。(マタイによる福音書6章26、28節)

【解 釈】
これも有名なイエスの山上の説教の一節である。もう少し長く引用すると以下のようになる。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」

ここで取り上げられているのは名もない鳥であり、どちらかといえば目立たない小さな鳥を意味している。同じイエスの言葉を伝えるルカ福音書では、当時汚れた鳥とされていた「烏」(からす)となっているところを見ると、けっしてかわいげのある鳥の姿を想像するわけにはいかない。野の花にしてもそうである。アネモネのたぐいとされているが、要は雑草であって、日立たぬところにひっそりと咲く花を意味している。ややもすると自然の美しさを歌い上げた印象を持ちやすいが、イエスがこれらの鳥や花を取り上げたのは、表の装いでなく、それらの存在そのものを見ることによって、人のほんとうの価値とはなにかを知りなさいということを教えようとされたからなのである。

【こころ】
考えてみると人間は、なにをしたか、加えてどれほど成果をあげたかを評価の基準にして、歴史や文化を形成してきました。個人の生活を考えても、なにをしたか、しなかったかを基準にしながら、その結果を見て、事の善し悪しを量ってきました。つまり、この聖書の箇所に書かれたように、蒔く、刈る、働く、紡ぐなどの働きが人間の価値を左右してきたと言えるでしょう。イエスの言葉は、この人間の価値基準の立て方にたいして、挑戦状をつきつけたのです。イエスは、働きでなく存在自体の価値について人々の目を覚まさせようとしているのです。

 世はますます高齢化時代です。できた、できなかったで人間の評価を決める社会にあっては、老人は厄介者のように扱われます。これまでの価値基準がそういう見方をさせてしまっているからです。存在自体の価値に気づくなら、もっとちがった扱いが出てくるにちがいありません。

 日曜日、会堂の片隅にひっそりと座って礼拝に出席していたひとりのお年寄りが、「若い人は一週間のうち一日休めば、あとの六日は働くことができる。私は六日休まないと日曜日の礼拝に来ることができません。やっとこうして礼拝に来られるので、だれも声をかけてくれないと寂しい」と言われます。ひっそりと座っているお年寄りは、忙しく立ち働く人々の間ではその存在がつい見落とされがちです。しかし、たった一時間あまりの礼拝のために六日間、体を整える努力があるとすれば、それは価値ある存在だと言わねばなりません。その価値を認めることがなければ、人間のほんとうの価値を見失っています。

 なにもそれは高齢者だけのことではありません。ただ「いる」だけで、できる、できないという評価のなかに身を置くことのできない人は大勢います。こうした人たちや、周囲にそういう人をもつ人たちにとって、このような視点は大きな心の味方です。

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