相手も自分も同じ傘の下

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第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイによる福音書5章44〜45節)

【解 釈】
山上の説教と言われるイエスの有名な教えの一節。ここで用いられた「敵」とは、聖書のもともとの意味では「憎む者」であり、「迫害する者」とは「追い払う、排除する者」という意味である。旧約聖書では、隣人を愛することが大切であると教えられていた。隣人とは味方のことで、敵は憎む相手であった。しかしイエスは、隣人を愛することは当然のことであり、それ以上に敵対する者を愛さねばならないとして、この言葉を与えたのである。

 山上の説教は、イエス在世当時の硬直化した教えにたいして、神の国における新しい自由な教えであると言われている。ふだん当たり前と思っている人間や世界に対する見方が、思いがけなく新しい方向に展開するので、面白くかつ深遠な教えである。なかでもこの箇所は、いかにも聖書の独自性を表す箇所として有名である。人を祝福するということから言えば、敵を愛するとは、もっとも優れた祝福といえよう。

【こころ】
敵とは、場合によっては必要なことだってあるのです。敵がいるほうが自分の正当性を主張できるからです。たとえば、「世間が悪い」「相手が悪い」と自分の外に敵をつくっておけば、自分を正当化できます。

 敵はまた外にいるばかりではありません。ときには自分自身が敵になることだってあるのです。どうしても納得のいかないことや、自分にとって受け入れがたいことが起こると、「なぜ」「どうして」と自分で自分を責めたり、自分に怒ったりします。自分が自分の敵になるのです。心のどこかで自分の正当性を得たいがために葛藤する自分がそこにいるのです。

 神経症の人は、自分の正しさを認めてもらうため、自分を取り巻く世界を敵視すると言われます。でないと、自分の正当性を主張できないからです。逆に言うなら、周囲を敵にまわすと神経症になることになります。軽症か重症かの区別はあったとしても、自分の内外に敵をもつ現代人は、大なり小なり否応なく神経症的症状を呈していると言ってもよいかもしれません。その意味からすると、このイエスの言葉は、神経症的な生き方をしないための重要なキーワードと言えるでしょう。

 どうすれば、敵を愛し得るのでしょう。都合よく、相手が敵ではなくて、味方になつてくれれば、これに越したことはありません。ところが、そう簡単に相手は変わってくれません。イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言っているのであって、味方とはおっしゃいません。相手はあくまで敵であることに変わりはないのです。敵を愛するとは、相手を敵のまま受容することなのです。敵を敵のまま受容する、そんな芸当がどうして可能なのでしょう。それこそ、この聖書の箇所の大切なポイントなのです。

 そのポイントとは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)とイエスが言ったことにあります。敵も神のもとにあり、この私も同じ神のもとにある、つまり相手も、この私という存在も、神のもとにあっては相対的な存在にすぎないということです。考えてみると、これまでは自分という存在と、それに相対する敵である相手との二者の関係しか見ていなかったのです。その相対する関係のなかで、自分が正しいとか、相手が悪いとかを争っていたのです。でも、その相互の対立関係を上から見るもうひとつの存在があることに気づきなさいというのがイエスの教えです。相手は相変わらず敵かもしれないけれども、その敵も、この私という存在を上から見てくださる方のもとにあるのです。要するに、敵も私も同じ傘の下にいるというわけです。それさえ分かれば、敵を敵のままに受け入れることに躊躇しなくなるにちがいないのです。

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