今日の悩みを明日に延ばすな

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第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書6章34節)

【解 釈】
有名なイエスの山上の説教の一節である。なにを食べようか、なにを着ようかといって思い悩まず、野の花や空の鳥を見なさいというイエスの言葉に続いて語られた教えである。人間というものは、とかく生きるためにあれこれと心配する。 明日がどうなるか、不安になるからである。問題を抱えて弱気になっているときは、特にそうである。しかし、心配をしたからといって、事がうまく運ぶことはないし、変化するわけでもない。野の花や空の鳥は、明日なにが起こるか分からないところを生きているが、何事もないかのように自然に生きている。なぜか。すっかり身を任せて生きているからである。あなたも生きることの根底に任せるものをもちなさい、ということである。そうすれば、くよくよせずに勇気をもって、今日を生きることができる。今日一日を生きることができれば、明日も生きることができる。

【こころ】
49歳になるあるご婦人の方でしたが、胃に悪性腫瘍があるとのことで手術をされたのでしたが、すでに「がん」は各所に転移しており、もはや回復の望みを断念しなければならなくなっていました。あと数ケ月の間、残る日々をどのように過ごすかが彼女の最大の課題となっていました。

ある日のこと、入院先にお見舞いに行きますと、
「ここまで来ないと分からないことがあるのですね」
としみじみ言われます。私はこの婦人の言葉に、今のときとしっかり向かい合って生きている人間の姿を見ました。このような事態に差し向かったときには、「今」と向かい合うことは、たいへん勇気のいることです。「今」の自分は見たくない自分であり、この今の自分から逃げ出したい気持ちになっている自分かもしれません。「今」と直面するより、過去の自分にとどまっていたり、未来を魔法の玉手箱のように考えていたりするほうがよほど気楽かもしれません。しかしこの婦人は、「ここまで来ないと分からないことがあるのですね」という言葉のなかにすべての思いを込めて、「今」の自分をしっかりと見つめているのです。

不安を抱えた自分、そしてもはやいくばくもない自らの命を考えるとき、過ぎ去った 日々の思い出やこれからのことなどをいろいろ思い巡らすことがあったにちがいありません。健康なときには日常の営みに忙しく、現在をじっくりと見つめるゆとりがなかなかありません。今や彼女にとって現在は、これからを生きるための重要な出発点となっているのです。

人がなにを考え、なにをするかは、すべて現在から出発します。現在がなければ、将来もありませんし、過去をすっかり洗い流したり、感謝をもって眺めたりすることもできません。現在は、すべてのときを見通す重要な出発点です。彼女は、この現在というときの大切さを身をもつて体験し、その「今」に立つ者として、これからの日々を生きることの大切さを教えてくれたのでした。

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