賜物の力|走る、走る、走る子どもたち
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走る、走る、用事があれば走り、呼ばれては走り、呼ばれていなくても走り、ともかく子どもは良く走る。2施設の学童クラブのキャンプに、それぞれ参加し子どもたちと触れ合って来た。昨年から各々キャンプを再開したものの、感染症を警戒する思いもあってどこかに「恐る恐る」という感が漂っていたが、今年は違う。そう、4年振りに「キャンプ気分全開」。そんな気分に後押しされたこともあって、本来の「走る子どもたち」の姿が見られ、「危ないから走らないんだよ!」と注意する職員の声などまるで聞こえないかのように走り回る。前期高齢者の私は一緒に走り回ることは適わないが、走る子どもの姿は見ているだけでも楽しい。「子どもは未成熟な感覚に適切な刺激を与えて、関係している部位を働かせる事で成長して行く。成長していくに従って与えられる刺激だけでは物足りず、自分から刺激を求めるようになる。その一つが走るという行動で、運動感覚と平衡感覚を鍛えることになる。」(2022.6.3.NHK「チコちゃんに叱られる」より、名古屋短期大学山下直樹教授解説)つまり、私たちの身体自体が成長のために必要なことは何かを知っているからこそ、「子どもは走る」のであって、それは「成長させてくださったのは神です」(1コリント3:6)と記されているように、神様が私たちに備えてくださった賜物であって、その賜物が子どもたちに「走ること」を促しているのかもしれない。「心置きなく走り回る」事だけでなく、共に過ごす事や家族と離れて一人で行う事等々の様々なキャンプでの活動を通して、その賜物が子どもたちを更に成長させてくださるに違いない。
身体の成長は望めない私のような者であっても、地上の生命が続く限り成長するものがある。すなわち「信仰」である。信仰は神がくださる賜物であるが、私たちの努力や熱心さによって増えたり成長したりするものでもない。だからといって心配ご無用。パウロが「この頭(キリスト)の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(コロサイ2:19)と述べているように、私たちに与えられた信仰は多くの人々との繋がりの中で、神が成長させてくださるものだからである。だから、何よりも先ず神を愛し、隣人を愛する日々を送る時、与えられた賜物は大きく成長し、豊かな実を結ぶことだろう。
いつまでも若いつもりでキャンプに参加してきたが、「前期高齢者」という現実は、着実に「疲労」と云う果実を大きく成長させている気がするのは気の精か!?